このレビューはネタバレを含みます
至極シンプルでありながら、途轍もなく雄弁な映画。これドキュメンタリーでしょ、と先ず疑ってしまう。最初は『岩合光昭の世界ふたりぼっち』という感じで、ひっそりと山の麓で暮らす夫婦の家にお邪魔してその暮らしのあるがままを岩合さんと観察してるような感覚で観ていたのだけれど、もちろんそうではなく、まるごとドキュメンタリーのように撮っているフィクションであると受け入れた上で鑑賞すると、その凄味にちょっと狂気すら覚えた。一体いつの時代の話なのかと聞きたくなるし、全てのシーンが自然なのに強靭で絵画のような美しさを持つ寓話みたいにこの目に映る。ちょっと久しぶりにこういう映画に出会ってしまって、上手く言葉が見つからないけれど、内と外のギャップがもう、ね。
以下ネタバレを含みます。
他の映画で観たブータンの僻地やロシアの草原映画のような、自然の中で生きること…を想起した。序盤なんかは可愛らしさが渋滞していて、頼りになる牧羊犬の佇まいや、羊たちのハムハムをわたしは忘れないし、リャマがベストな位置でウロウロしたり、放尿したりと、神掛かっているなと思うシーンに感動する。ポンチョ作りのふたりは可愛いなんて言葉では足りないよね。次々に飛び込んで来る充実の情報量に、ちょっと処理が追いつかなかったくらい。しかし、作品の根底には、ずっと不穏さが漂っていた。そんな気がする。
もしも、子が亡くなっているのだとしたら。わたしの想像ではあるけれど、彼らの部族は身内を亡くしたら、亡くなった者を弔うため、もしくは亡くなった者と、より近くで暮らすために、山へ山へと住む場所を変えていく、そのような風習があったのではないか。パクシが子の早過ぎる死を嘆いて(劇中であたかも生きているように過ごしているのは、近くに感じているということかな)、村から随分と離れた場所に住むことを決め、ウィルカはそれに反対することもなく、パクシの意思を尊重した。しかし、年を取るにつれ、老齢の夫婦がふたりで暮らすというのは現実的ではなくなって行くのだろうし、まさにその状況にあったのではないか。
もしくは、ふたりの言う通り、本当に子が家を出て戻らなくなったのだとしたら。若者は山を下り、老人は山に残るという、日本でも見られる田舎の過疎化に似たものがテーマなのかもしれない。ふたりが度々神に問う、何の罪を犯したのでしょうか、が強く頭に残るのに対し、若者にとって信じる、信じられる対象とは、自然的なものではなく、文明の利器なのだろう。都会に行ったら最後、山には戻らなくなる。過去より未来、文化より文明。だから、ふたりは子の名を呼んではいたけれど、それはわたしたちを置いて変わってしまったもの(社会)への訴えだったようにも思える。若い風よ、というのもそうだ。わたしが忘れられないのは、あのマッチを買ってきてねという台詞。凄く凄く突き刺さって、パクシが念を押す度に胸が苦しくなった。
しかし、亡くなったウィルカに、アントゥク(子の名だったのかな)を頼んだよ、と言っていたということは、やはり子は亡くなっているのだろうか。それとも、自分たちの元を離れた子を見守ってあげて、という意味だったのか。モヤモヤはするけれど、説明がないことが、ここまで心地の良いこともなかなかない。終始、子は不在。やがて犬が消え、羊が襲われ、家は燃え、生きるためにリャマをシメ、遂にはウィルカが帰らぬ人となる。そして、最後にひとり残されたパクシの前に立ちはだかるあまりにも高く険しい絶壁が、凄まじい余韻を残した。
ひとつだけ残念なのは、監督がもう亡くなられているということで。もっともっと、監督の見ている世界を観てみたかった。本当に素晴らしい作品でした。ありがとうございました。