ハル・ハートリー作品のの通奏低音の産声。話の混乱、錯誤、すれ違い、家に集結しすれ違う登場人物。しかし最後の爽快さ。罪の過去を背負う男と変わった女という定石。瑞々しい映像であるが、そうした映画の特有のあ>>続きを読む
時間こそが唯一の共有できる要素なのだ。
第一部のあまりにもひどく見るに耐えない容姿をしたワークショップ受講者特に男性には、この映画の非俳優性危ういものだと悟らせる。ただ同時に4人の女性の美しさ、それは>>続きを読む
イーストウッドのターミネーター
自己の一種の神経症的な”力”によって孤立無援さをマクガフィンに変容し、強さを含意する。
WAの作りたいものを作らせてしまうアメリカの寛容性こそうらやむべきものだ(蓮實談)を思い出さざる得ない。こんな作品作れることが羨ましい。
複数のシークエンスが展開されその帰結が結ばれ集結されることが期待されるのだがエドワードヤンはある夫婦の話を次第に軸に滑らせ、その並走するシークエンスをただの伏線の回収ではなく、ある夫婦の物語の隠喩とし>>続きを読む
チョットキンイチロ!ドウゾッ!モットモットパンケークッ!モットパンケークッ!ハイッ!ハイッ!ハイッ!
その完璧な構図から、あるいはレンブラント的な美しい陰影から、ヴェントゥーラの身分における苦悩ではなくむしろ身体的美しさを刻印する。離脱した現実は光をまとって浮遊しカーボヴェルデの苦痛から苦悩から遠く離>>続きを読む
MVをひたすらなぞる映像が前半では繰り広げられ、意味ありげにセリフを何重にもデフォルメするのだがそこに映画的な内的にも外的にも反復はない。終わり際4人の少女から2人にようやく選別された後に進みだすがす>>続きを読む
弁当屋で男似合ってからのボクシングのシークエンスは見るに堪えない、不要なエフェクト、凡庸な通奏が流れ思考のない画面がそこらに彷徨う。安藤サクラの気品だけでこの作品は保たれる。
郊外の家近くのなんでもない道路を暗い光で(決して憂鬱ではなく、伸びのある鮮やかな色彩で)彼との生活より遊び足りない彼女がパリでの生活へ向かうところから始まり、彼に回帰するが映画的な帰結で終える。このラ>>続きを読む
圧倒的な伸びやかさコダックのカラーフィルムのせいなのか、南仏の波長の光のせいなのか、あるいは瑞々しいアマンダ・ラングレはじめとする人々のせいか。
海辺の別荘の門を開き、門を閉じる。オープニングとエンデ>>続きを読む
健全な、そして神経症的な男
イーストウッドの荒野に突き刺さる木製の乾いた十字の墓標のような身体は拭い隠す事なく新たな光学的戯れを促す。存在するあまりにも健全な身体と一種の神経症的な主題が我々を混乱させ>>続きを読む
ジャームッシュのあまり欠くことのない表象「タバコはあるか?」「タバコ、、は吸わないんだ。」(タバコの不在)こそがこの作品の立ち位置を定めている気がした。