リュミエールの初期映画の人々は演じていなかった。今の映画みたいに“演技が下手”な訳でなく。下手なのは騙そうとするから
先輩の過去作品にこんなのがあったな…こういうものを求められていたんだろうか?でも、それを味わえる教授と、こんなのただ海に飛び込んでるだけじゃんと言い放つ誰かの両方の言葉がわかるような気もした。
メリーさんは最後に映るけれど、メリーさんではないわけで、本名も私たちは知らない。
女性の置かれた社会状況を描いたとしてもそれは夢物語で
暖かさも自由な動きとカメラも救いにはならなかった
列をはさんで隣の席の人が遅れて入って、椅子の肘掛けに暫く座ってた。しばらくするともう一人男性>>続きを読む
秘密がないやつは、嘘をつけ。秘密があるように見せかけるのだ。
という言葉を思い出しながら
ギチギチにあなたはカメラに静止させられている。止まっていろ、と言われて止まってフレーミングされている。
そ>>続きを読む
ドゥボールのあの白い画面を見てしまうとどうにも違うと思ってしまった。このやり方では、毒にならない
きっと薬でどんどんと太ってゆく身体
発症する時期
彼がなぜ漫画を描きたくなったか
愛の描き方が精神疾患を通して変化したことに大きな意義を感じた作品だった
家族構造から(母は息子、夫と妻)を取り出して家族愛でもない愛を結ぼうとする
村上春樹で破綻する仮面夫婦の愛のような
トラウマ学の>>続きを読む
あの白い壁
考え過ぎるとわからなくなることについて手を繋ぐ人
NANAよりも原作に忠実な解釈を優先したり、カメラワークも向上しているように感じた
リマスター版でも“色褪せない”画だった。時代の色で誤魔化したりなんかしていないカメラだったんだろう。
思えば90年代に、戦中の色や気迫をそのまま再現することはどれ程に難しいことか。
心の中の色を映して>>続きを読む
ウサギの耳を引っ張って遊んでいたら、(そのせいでは無いにせよ必然的に)ウサギがその時に死んでしまうようなことってあるなと思いながら見ていた
主人公と同じようなタバコの煙の中で何度か眠ってしまった
“頭脳と手の間の媒介者は心でなければならない”
お人形さんのような人々
たまにエンタメ脳になることかあって、その時はもうそのことしか考えられない。GANTZをひたすら読んでる。
大岩雄典さんのレクチャーより。クールベの絶望の自画像と対比されていた。おはよう、おやすみ、ラジオみたい。グッドモーニングアメリカ。草野マサムネもラジオで二つの挨拶をします。
過小評価では。
一人の少女がこちらを見つめるシーンで、その目を一瞬見た時から、ある人の目を思い出した。けれども、少女の目は一重で恐らく睫毛は下を向いているだろう、しかしながらその人の目は二重で睫毛が上>>続きを読む
そんなに言う程でもないけれど、どちらかと言えば時代を感じる。原作作画も美少年作画ではあるけれど、やっぱり平成のキラキラ作画。お色気シーン。仮面ライダードラマってこんな感じなのかな、と思いながら観てた。>>続きを読む
リリアン・ギッシュ(グリフィス御用達)現代日本でウケそうな顔だな〜と思ったら、TikTokみたいな表情までする。
Twitterとかスレで読むような物語に対しての風
サイレントとしての風
最後はしっかりぞっとしたけど、女性が主人公だとカメラが硬直している気がする。
主人公は男性、登場人物が多い時、アルトマンのカメラの放り出しが起こって、精神疾患も健常も等価で映る。
探偵というジャンルを手放したカメラ。リビングルームのように鑑賞者を受け入れて、風景の中に佇ませる。主人公はやはり誰かわからなくなり、ガラス越しの精神病者が海に飛び込むと、気を利かせて犬も走らせている。>>続きを読む
マルゴに決め切らなかった理由が一番大事なところな気がする
黒い長袖、グレーの長袖がダサイ
時間の繋げ方
人のアンバランスな関係を描くロメール
ラストに感想を聞くシーンまで取り込んでしまう空気作りができるのってYさんのパフォーマンスと同じだ。
カメラは意図的なものだから、フィクションなのかドキュメンタリーなのかわからない。
こわれゆく女っぽいけれど、もっと患者主体で描いている感じ。
カメラが時折ハリウッド仕立てになってしまうのが気になった
MASHみたいに平行に映されているものが好き