三樹夫

ゴジラ S.P <シンギュラポイント>の三樹夫のレビュー・感想・評価

3.7
ゴジラに対するSF的アプローチで作られたのがこのアニメだが、大枠のストーリーとしては有限会社の社員が自家製のスーパーA I搭載のジェットジャガーでラドン、アンギラス、クモンガ、ゴジラと戦うというものだ。怪獣は他にもマンダが出て、EDにはモスラ、メカゴジラもいるが作中一応出ており、ED詐欺は回避されている。怪獣が出現し世界が変容していく様、次々現れる怪獣を手製のジェットジャガーで戦うという面白さは確実にあり、次の話が気になりとめどなく観てしまう楽しさがある。
作画も1クール通して崩れない、あからさまな作画班休憩回も無いのは、最近では当たり前になっているのかもしれないが、凄いなと驚く。数年前だと1クールの真ん中らへんに1話は作画休憩回が入っていたような。所謂水着回が作画休憩回のことが多かった印象がある。『SSSS.GRIDMAN』でも川へ校外学習に行く回は作画を多少なりとも休ませようという1枚画の連続シーンがあったし、そもそもアニメ作るのが数年前に比べて楽になったとも思えないし、ここ最近のアニメを観ていると驚くことが多い。ただし良いところもあるが悪いところも目立つアニメだ。

『シン・ゴジラ』と3本作られたクソみたいなアニメ映画が合体したようなところがあって、ゴジラの造形が『シン・ゴジラ』から離れられていないというか、ほぼ一緒。葦原が庵野秀明にしか見えないが、『シン・ゴジラ』参考にしてますという参考文献紹介みたいなものなのか。紅塵により画面が赤色で埋まるため何体怪獣が出てこようともゴジラが暴れようとも、怪獣が暴れる爽快感は低い。
オタク君の脳内遊びといった感じで、怪獣をSF的アプローチのための素材としか見ておらず、ひたすら理屈をコネコネするだけのオタク臭さがキツい。登場人物は中身が全員一緒で、どんだけ難しい理屈こねようが引用引っ張ってこようがシームレスで分かり合う自分と同じような人間しかいない、他者のいない狭い世界が出来上がっている。何言っても分かってもらえるそんな人物しかいない世界って快感というような閉じた世界で、そんな他者のいない世界に憧れちゃってるような幼稚さを感じてしまう。中身が全員一緒というので、キャラクターに関しては悪い意味で押井守みがある(押井守作品はこれキャラクターの中身全員押井守やんけとなる、『イノセンス』とか)。あるいは、このアニメのキャラクターはSF考察を話すためのスピーカーでしかなく、興味のなさが伝わってくる。
2030年の話なのに高木渉が声を当てていた社長をおやっさん呼びは、人生で一回もそんな呼び方したことないのに、昔の作品でされていたおやっさん呼びを真似してやってみたというようなオタク臭さがある。つーか2030年にならなくてもおやっさん呼びする奴なんかもういないよ。社長(おやっさんとか書くのこっちの方が恥ずかしくなる)の喋り方も、社長の年齢の人の喋り方を描けないのであんな喋り方にして誤魔化したように思う。登場人物、男だろうが女だろうが年齢が何歳だろうがどのポジションの人だろうが中身が全部一緒で、一種類のキャラしかいないし。
本多猪四郎や、ゴジラシリーズに参加はしていないが実相寺昭雄など、完全に怪獣の側に心があるという監督がいる。『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』で本多猪四郎は子供たちに対して、いい子になんかなるな、怪獣になれ、という激熱のメッセージを投げかけていた。『シン・ゴジラ』とゴジラアニメ映画3部作ですらまだ怪獣の側に心を置いている所があったが、このアニメは怪獣の側には清々しいくらい全く心を置いていない。完全にSF的アプローチの対象としてしか見ていない。怪獣に対するSF的考察をいくら行ったところで、悲しいかな怪獣は現実にはいないから、オタク君がひたすら理屈コネコネしてる脳内遊びにしかならん。理屈コネコネすればする程、脳内遊び感が際立ってくる。
『銀魂』の主人公みたいな風貌のゴム草履主人公は、実際にゴム草履で走ればわかるが、ゴム草履って走りづらいのに頑なにゴム草履はいているのはなんでなんだろ。それでいて走るシーンもあるし。ゴム草履で全力疾走とか至難の業なのにあんなに早く走れるわけない。ゴム草履はいて走ったこともない人が作っているのかと思ったら、社長は下駄はいて走ってたから、そこの所はどうでもいいのだろう。SF設定に拘るのにキャラの外面はすごい記号的なのはなんでなんだろ。単純に興味がないだけか。
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