CLANNAD 〜AFTER STORY〜の22の情報・感想・評価

エピソード22
小さな手のひら
拍手:17回
あらすじ
学校へと続く坂道の下。朋也の前にはうつくむ一人の少女。彼女は立ち止まったまま、 一人つぶやく…。 そんな彼女の様子を朋也は見つめ続ける。 桜舞い散る坂道で、今、朋也は渚に出会う…。
コメント4件
たろさ

たろさ

このコメントはネタバレを含みます

悲しいことは全部なしでハッピーエンド。ちょっとどうかなと思うけどこれがいい。
夏藤涼太

夏藤涼太

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(エンタメ的には一番の感動ポイントと言われ、そのテーマ「家族愛」を象徴する2期18話ではなく) 麻枝准が本当に描きたかった、CLANNADの一番の感動ポイント――CLANNADにおける最大のテーマの現れ――それはアニメで言うなら、(本編)最終話の22話前半の、(自分は初見時には受け入れられなかった)奇跡の起こるシーンである。 「なぜCLANNADで奇跡――渚の復活――が起こったのか」という疑問を(特にアニメだけの視聴者)抱いたものは多いだろうが、実は、「奇跡が起こった理由」を本当に理解している者は、原作既プレイ者でも意外と少ないのではないか?と、ネット等の考察を見ていて思ったものだ。 CLANNADで奇跡が起こった理由は、けっして、「朋也が光の玉を集めたから」だとか、あるいは「街の思いが奇跡を起こしたから」ではない。 いやある意味では、その2つの表現は正解なのだが…本質ではない。 「朋也が光の玉を集めて」も、もうひとつの「条件」を満たさない限り、「街は奇跡を起こさない」のだ。 それは原作をプレイすればよくわかるが……アニメでも、京アニの渾身の演出とアニメーションでよく描かれている。 渚を失った後(アニメでは汐を失った後)、朋也が光の中で、渚との出会いをやり直す場面で、朋也は選択を迫られる。 それは、渚を「呼ぶ」か「呼ばない」かだ。 呼ばない――というのは、「こんな悲しい思いをするくらいなら出会わなければよかった」と、渚との出会いを否定することだ。 それは確かに渚を失う悲しみをなくすことはできるが、だが同時に、渚と過ごした「幸福な日々」――汐という家族を得たこと――をも否定する発想だ。 それは言うまでもなく、アニメ版2期16話~21話の朋也である。 だからこそ初見時に、生まれた汐を忘れて渚を失った絶望に陥った朋也がどうも受け入れられず、その延長線上の18話の感動シーンも、理性的には感動を拒んだものだった。 だがそれは、16話~21話が実質的なバッドエンドである汐ルート(汐エンド)だったからで、確かに18話はエンタメ的には最大の感動ポイントだろうが、言ってしまえば、作者である麻枝准的には、18話の朋也は「失敗した朋也」なのだ。 汐ルート(2期21話)で汐が死んでしまうのは、朋也が汐の存在を否定したからだ。 前述したように、渚を「呼ばない」――というのは、汐という家族を得たこと――をも否定する発想だからだ。 正しい選択――奇跡が起きる条件は、渚を「呼ぶ」こと。 渚と出会ったことを肯定することだ。 そしてそれは同時に、「渚を失う悲しみ」をも肯定することでもある。 この過酷な選択をしたからこそ、奇跡は起きたのだ。 そのストイックさは、まさに麻枝准の哲学そのもの。 その哲学がモロに出たAIRや智代アフターは賛否両論もあったが…… AIRへの批判に対するアンサーであり、また智代アフターと違って「奇跡」が起きたCLANNADでも、最後の奇跡の発動条件は、「結末がどのような悲劇だとしても(「こんな思いをする位なら(渚と)出会わなければよかった」などと思わずに)渚と自分の出会いは幸福なものだったと認める」ことであり、やはり、過酷さの中の「幸福」を認める(肯定する)という、ストイックな選択(=麻枝准の言う「はるかな高み」)が求められるわけで。 音楽と感動でゴリ押しされてその面はあまり見えてこないが… トゥルーエンドのED「小さなてのひら」の歌詞、あるいはアニメ版1期EDの「だんご大家族」の歌詞を見ても、麻枝准は一見ご都合主義的な、大衆の求める奇跡を描きながらも、ちゃんと自分の思想を織り込んでいることがわかるだろう。 「小さな手でも 離れても 僕らは この道 行くんだ いつか来る日は 一番の想い出をしまって」(小さなてのひら) 「なかよしだんご 手をつなぎ 大きなまるい輪になるよ 町をつくり だんご星の上 みんなで笑いあうよ うさぎもそらで手をふってみてる でっかいおつきさま うれしいこと 悲しいことも 全部まるめて」(だんご大家族) いつか来る過酷な別れ。でもその時も、一番の思い出――幸福な記憶を忘れてはいけない。悲しい思い出の裏に、幸せな思い出もあったはずなのだから。 このCLANNADにおいて奇跡が起きる裏の条件(裏テーマ)は……実は、AIRでの「1000年間の呪いが解ける条件」と同じである。 「わたしたちもいつの日か、滅びる時を迎えるでしょう。それは、避けようのない結末。 けれど、最後は…星の記憶を担う最後の子には…どうか、幸せな記憶を。 その時こそ… わたしたちは役目を終え、眠りにつけるのでしょう。」 また同時に、『智代アフター』の結論――その結末がどんな悲劇であっても素晴らしい人生(It's a wonderful life)だと認めること――とも同じである。 麻枝准は、同じテーマを描き続けているのだ。 ここまでのテーマを加味することで初めて、「CLANNADは人生」という言葉の意味が本当に理解されることになる(この言葉自体は本来は深い意味のない言葉だが…)し、また、CLANNADがいわゆる「恋人が死ぬ系感動ポルノ」とは一線を画した作品であることがわかる。 なぜならCLANNAD(あるいは麻枝准)が描く悲劇――恋々の死――とは、すべての人がその人生において体験する普遍的な事象であり、その克服(受容)を描くCLANNAD(あるいはAIRや智代アフター)は、全ての人の人生を救いうるものであるからだ。 確かに、出産直後に最愛の人を失うという経験をする人は少ないかもしれない(いや確立的にはヒトの死亡率が一気に高まるポイントではあるが)が…… どんな人も最後には死んでしまうし、どんな人とも、最後には別れるものなのである。 CLANNADにおける「渚の死」は、すべての人々がいつか体験する「愛する人との別れ」を、フィクションとしてすくい取り、デフォルメして描いたものだと言ってよい。 そのテーマを予告したのが、CLANNADの冒頭の渚のセリフだ。 「この学校は、好きですか。わたしはとってもとっても好きです。でも、なにもかも…変わらずにはいられないです。楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ。…ぜんぶ、変わらずにはいられないです。それでも、この場所が好きでいられますか?」 最後に別れてしまう…死んでしまうなら、その人生は不幸なのか? いや、そんなことはない。その中にも、幸せはあった。 たとえ過酷な人生だとしても、幸福な人生――It's a Wonderful Life――は、共存しうるのである。 だからこそ、朋也は最後に渚を呼んだし……街も奇跡を起こしたのである。 アニメ版は、そんなゲームならではの仕組みを利用したストーリーをかなり強引なまとめ方で回収したものの、その「呼ぶ」シーンにおいては、原作より感動した。 なんといっても、アニメ版朋也――中村悠一の熱演と、京アニの渾身の演出――抱きしめた瞬間の渚の足の演技であり、このシーンだけでも、京アニ版CLANNADは永遠の名作とアニメ史に銘打たれるに値するだろう。 なお、配信どころかソフト類でも見られないことがあるという、23話のオリジナルの過去編、24話の朋也が汐に語りかける(だけでなく京アニがアニメ版CLANNADという物語をどう解釈しているかがわかる)総集編も必見。 杏編は……智代編以上にダイジェストなので、原作既プレイ者にしか進められないけど…… しかし…京アニスタッフ、マジでどんだけ風子好きなんだ……? 渚でさえ、原作からはかなりのエピソードやネタが削られてるのに、ヘタしたら、風子は原作ネタ全部再現されているのでは……?
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りりうむ

りりうむ

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急に面白くなった。 理解はできてない。
mizuki

mizuki

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刹那的邂逅の物語だったんだ