晴れない空の降らない雨

ルパン三世 第1シリーズの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

ルパン三世 第1シリーズ(1971年製作のアニメ)
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 『ルパン三世』の1stシーズンは、宮崎駿の初監督作品だ(高畑勲と共同)。「大人向けのアニメをつくる」という意気込みで始まった『ルパン三世』最初のアニメ版だったが、歴史的低視聴率を記録してしまう。そして路線変更が決まり、演出交替となった。そこで指名されたのが当時の高畑勲&宮崎駿であり、作監の大塚康生に合流して図らずも元東映動画のメンバーが集まることに。

 といっても交替時点で出来ていた脚本や絵コンテや作画もあったし、遠慮からか高畑・宮崎があまり語らないため、役割の実態は完全には解明されていないようである。例えば、16話の絵コンテは「出崎哲」とクレジットされている(出﨑統の兄)。しかし大塚の『作画汗まみれ』では、(何の注釈もなしに)宮崎駿によるものとしてこの回の絵コンテが引用されている。また同書では、演出ばかりか原画まで宮崎に頼んだ回もあったと書かれている(観れば分かるが)。

 宮崎作画を除くと、全体的に当時らしい和製リミテッドアニメだが、そこかしこで、少ない動画枚数であっても的確なキーポーズで動きの印象を生み出す大塚康生の腕前を味わえる。
 

■脱シラケ 
 11話頃から宮崎の影響が顕著となり、当初の「大人向け」路線は、「漫画映画」由来のコミカルなノリに置き換わっていく。確かに最初期に比べると峰不二子のお色気シーンは抑制されているし(というかお顔が…)、あり得なかったようなギャグもある。ルパンの性格がお調子者に変化し、14話なんて五右衛門まで次元と一緒にニンマリと笑って見せる。11話も明らかに宮崎の趣味が突っ走っている。

 前述の通り、こうした変更は低視聴率を受けた局の意向だったわけだが、高畑・宮崎本人もやる気だったようだ。大塚たちの言葉では「アンニュイ」、宮崎の言葉では「倦怠」が『ルパン三世』の基調にあり、それは学生運動の後にやってきたシラケ世代の精神的態度だと宮崎は指摘する。その上で、自分と高畑はこのシラケを払拭したかったと述べている。

 高畑は大分違った説明をしていて、第1話のようにルパンが視聴者に手の内を隠したまま常に余裕ぶったポーズで気取った会話を交わす様は、視聴者ウケが悪いんじゃないのかと考えたとか、そんなことを語っている。そこで自分たちは、ルパンたちの作戦はなるべく視聴者に分かりやすく提示しようと努力したそうだ。
 

■高畑の心理描写
 理想と程遠い状況にあって、2人は十分に実力を発揮できてはいない。しかし、至るところでシーンをより面白くしようという努力が窺える(単に出来事を説明する以上の明確な意図をもってシーンを構成する)。作品のコンセプトを大いに変えた宮崎の存在感が強いが、会話シーンなどを中心に高畑のアイデアと思しき箇所も多い。

 高畑で間違いないと思うので13話から幾つか取り上げる。7分54秒あたりから始まるシーンはワンショットで処理することでコミカルな効果を上げている(画面奥、五右衛門を探しにルパンが右にアウトした直後に、画面手前の左手から五右衛門がインする)。日常芝居にちょっとしたおかしみを加えるのが高畑らしい。

 その後は、強敵に徐々に追い詰められていくルパンの心理を表現するシーンが続く。画面奥でポツンと背中を見せるルパンに対して、手前からインした次元と五右衛門が話しかけるが、ルパンは背中を見せたまま微動だにしない。次元と五右衛門は大きく、ルパンは小さく描かれている。会話中のナメのショットで遠近感を出すこと自体は初期の話数にも見られるが、高畑や宮崎は一歩踏み込んだ意図を持っている。

 強敵との二度目の対面を経てすっかり自信喪失したルパンの空笑いで始まるシーンは、カメラの前に水槽が置かれており、彼らの姿がぼやかされている。大げさな身振りと表情で説明するルパンのショットに切り替わる(背景の壁にかかった抽象絵画は明らかに不安を表している)。次に聞き手の次元と五右衛門の切り返しが入るが、ここでは次元と五右衛門が無表情・不動であることで、冷静さを失っているルパンとの対比が鮮明となる。

 その次の不二子が現れるシーンも実に巧みに設計されているが、この辺にしておく。とにかく一連の心理描写は、ほぼ間違いなく高畑の提案が反映されたものだろう。しかもこれらの演出意図は、予算と時間の厳しい制約というTVアニメの条件とうまく折り合いをつけている。高畑にとっても『ルパン』はTVシリーズの初監督作品であり、この経験は『ハイジ』などその後のTV仕事に生かされたのではないだろうか。
 

■宮崎的なアクションシーン
 次に、実に「パヤオらしいなぁ」と思うシーンを1つ取り上げる。第9話にある、10秒程度のシーンで、終始カメラは固定されている。カメラは少し離れたところから倉庫の正面を捉え、そお手前にルパンの黄色いベンツもある。まず倉庫の入口の闇からルパンが飛び出し、車に乗る。車は手前(カメラ)に向かって走り、そのままカメラを飛び越える。ポスト『ホルス』な演出だ。

 まだ続きがある。同時並行で倉庫から出てきた3人の男が銃を撃つが、屋根で待ち構えていた次元に1人がやられる。すると残りの2人は脅えて抱き合う。これんぞ明らかに宮崎駿らしいコミカルな芝居だ。

 さらにこのシーンは視聴者の意表をつく。次元はそのまま屋根から落ちる。するとカメラより手前に逃走したと思われたベンツが戻ってきて、そのまま落下する次元を乗せ、倉庫左の階段を駆け上がり、姿を一瞬消した後、画面最奥の街灯がある通りをを左にフレームアウトしていく……。

 こうして、シーンの最後まで観て、視聴者はこの奥行きあるレイアウトの意味を理解する。三次元空間を遊戯的に活用する宮崎駿のテクニックが冴えていて印象的である。タイミングよく次元をキャッチする「ありえねー」感じも宮崎っぽい。加えて、同一ショット内で並行する複数の運動(ベンツ・敵・次元)も『ホルス』で試みられたテクニックだが、やはり『ルパン』の初期の話数にはほぼ見られない。