● Week1: 婦人の社会進出と結婚。女性の「幸せ」や「成功モデル」が、いかに時代に左右されてきたのか、考えさせられる。男性に迎合するときの女性の身ぶりは、女性によってこそ、よく見られていると感じさせる、寅子の観察眼たるや。また、「婚姻状態にある女性は無能力者」…は?はて?となる気持ちはとてもわかる。ただ、戦前の民法のあり方のど真ん中で、それを言語化できる寅子のような存在は、稀有だったと思う。
● Week2: ふとしたきっかけから、法廷見学に導かれ、弱者の「盾」になる弁護士としての理想・目標を設定した寅子。学友との繋がりも徐々に芽生えてきた。「結婚への絶望」もひとつのキーワードか。
● Week3 & 4: 法科の同級生との関係性が、徐々に構築されていく。よねの自己開示あり、梅子の自己開示ありで、登場人物の背景が明らかになっていくことで、物語に深みと豊かさが増してきた。そんなところで、共亜事件。続編が楽しみ。
● Week5: 父の逮捕という大きな転換点が描かれる。父の裁判の経験をとおして、法は「水源」のようなものという法理解が、寅子のなかに生まれる。
● Week6-8: 女性」としてのライフイベントを立て続けに迎える寅子。そんななか、優三こそが、寅子のソウルメイトだということが、本当によくわかる、第40回だった。
● Week9: 再起の背中を押したのも、また優三の言葉であり、存在。これからの寅子の躍進が楽しみで仕方ない。
● Week10: 特に、第47回は、戦後における、アメリカやGHQに対する日本のアンビバレントな心象を、巧妙に描いている回だと感じた。花江のように、家族を戦争で失ってしまった人の多くは、敵国としてすぐには支持しにくかったであろう。一方、寅子の同僚のように、日本が「脱皮」する契機を提供してくれたと考える人も、いたかもしれない。法改正に対する、伝統保守と改革の観点からの対立も見えてきた。
● Week11: 花岡の衝撃的な死から、一週間の幕開け。よねと轟の再登場も。寅子は多岐川という上司のもと、家庭裁判所設立に向けて邁進する。
● Week12: 道男との出会いと、はるとの別れ。
● Week13: 梅子との再会。民法が改正されても、男尊女卑のイデオロギーは根強い。一方、寅子一家では、花江に家事の負担・責任感が重くのしかかる。(1) 女性を主題にするドラマ作品は、バリキャリで家事が苦手みたいな、まさに今回の寅子やりつ子のようなステレオタイプ的女性だけを描きがち。そんななか、家事労働の役割を真摯に受け止め、自身の社会的地位や人生の意義に悩み、自分なりにこたえを出そうと必死になる花江のような女性も忠実に描くところに、本作の素晴らしさがあると思う。ミドルエイジ・クライシスや、自身のアイデンティティの揺らぎを経験するのは、男性や職のある女性だけではない。(2) 公的に「活躍」する女性がいると、その女性の能力・才能・「男勝りの」性格などに焦点をあてがちだが(そして、それはある意味では間違ってはいないと思うが)、なぜ、その才能を培えたのか;なぜ、その能力を開花させ、職を全うする《自由》を得られたのか、という点も、もっと考えるべきなのだと、本作品を観ると反省を促される。それは、語弊はあるかもしれないが、社会の「男目線」でみれば、キャリア開発に「失敗」した、よねや梅子のような生き方をも包摂して、忠実に描いているからではないか。かれらの生き方のありようをみていると、キャリアを「成功」か「失敗」かでしか測ることのできない視野の狭さの、問い直しをせざるをえない。
● Week14: (1) 今週第一話について。仕事が「できない」とみなされれば蔑まされる一方、今回の寅子のように、パフォーマンスが評価され、注目が集まれば、それはそれで「女性ゆえの評価」として、嫉妬の対象となる。とりわけ若い女性にとっての、キャリア開発期におけるダブルバインドを、軽妙なプロットではあるが、違和感なく描出していると思う。(2) 第69話について。「雨垂れ石を穿つ」。この言葉の解釈は分かれるだろうが、寅子は、社会のために個人が犠牲となるような含意も、個人が社会を大きく変革しうる可能性を戒めるような含意も受け入れがたく、この言葉を、理想に邁進する活力を削ぐような発言として捉えたのではないだろうか。確かに、個人が社会の「空気」に抗い、変革するためには、長い時間を要する場合もある。自分を鼓舞するため、自身の功績を称揚することが必要な場合もあるだろう。しかし、とりわけ、「闘い」に常に正面から向き合おうとしてきた寅子にとって、この言葉は、現状肯定の馴れ合いの言葉として聞こえたのではないだろうか。引き続き、考えてみたい。
● Week15: 「スン」とは結局何なのだろう。誰かの規範に自分を合わせすぎて、その人らしさを押し殺して生きること、だろうか。人が社会で生きていくためには、「スン」と「はて」の塩梅を、調整しつづけるしかないのだろうか。まだまだ、自分には解が見えてこない。新潟篇も、楽しみ。
● Week16-17: 新潟編84話が印象的だった。(1) 社会や他人から与えられた役割をこなすだけでは、真の関係性はつくれないし、「自分の」人生は切り拓けない。このスタンスは、ステレオタイプ的な「妻」や「娘」などの社会的役割に対して、「ハテ?」をしてきた寅子から優未へと、自然に継承されているのかもしれないな、と思った。(2) 涼子や玉の場合もそうだと思う。人が出逢うとき、所与として偶然(本人からすれば必然だが)与えられた階級やジェンダーなどの規範を破って、新たな関係性にアップデートできたとき、本当の関係性がそこから漸く始まるのだと思う。だからこそ、自己開示は苦しいけれど、必要なのだと思う。自己開示に涙が伴うのは、社会規範という過去の仮面のなかの自分や、これまでの関係性を、ある意味でリフレッシュしたり、水に流すためでもあるのかもしれない。ふと、自分はこれまで、どれだけ自己開示できたのだろう、と問う。(3) ひとつだけ、それでも気になったのは、ある意味寅子のイニシアチブによって、玉は自分のタイミングではなく、自己開示を予見なく強制されたようにも感じる。それこそが今回は功を奏したように思われるが、場合によっては、自己開示を強制する行為は、暴力や相手のトラウマにもなりかねないようにも思う。寅子や涼子、玉の信頼関係が土台にあってこそ、今回のように素晴らしいひとときになったのだ、ということを覚えておきたい。
● Week18: