YasujiOshiba

チェルノブイリのYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

チェルノブイリ(2019年製作のドラマ)
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U-次の延長戦。

評判は聞いていた。評判通り。ただし5話はこれから。今日は遅い。明日だ。でも明日は来るのか。

8/9

その「明日」は来た。最後の5話を見る。よい。みごとに示唆的なエンディング。それは僕らの国でも起こったことかもしれない。そして終わっていない。また起こるかもしれない。

このシリーズを構想したのはクレイグ・メイジン(Craig Mazin, april 8, 1971 - )。製作総指揮と脚本を手がけているから、彼がこのテレビシリーズの「ショーランナー」ということらしい。

けれども最初からチェルノブイリの話が「ショー」になるか確信が持てずにいたという。だから脚本を書き上げると、仲間に見せて「こいつはショーになるか?」と聞いて回ったという。そしてそれはみごとなショーとなった。

もちろんメイジンは、人々がチェルノブイリに関心を持っているのはわかっていた。事故が起こった1986年に彼は15歳。若いとはいえ、そのときの雰囲気を覚えていないことはない。実際彼は、一時期はチェルノブイリ関係の資料を読み漁ったという。もちろん、人々に関心があることもわかっていた。なにしろソ連は秘密のベールに包まれていたのだ。

こうしてリサーチを始めた彼は、そこに信じられないような事実があったことを知る。それは信じるのが難しいような真実だったからこそ、それを物語にするとき、どこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなのかを区別する必要があった。

実際、それまで続けていたポッドキャストで、ドラマの中のどの部分が脚色なのかを説明しているし、エンドクレジットで実在の登場人物のその後を紹介するとき、エミリー・ワトソンの演じたホミュック博士が「事故当時にレガソフなどと共に事故調査に当たった幾人かの科学者を一人に纏めた架空の人物」だと説明することになる。なぜなら、この「ショー」のテーマが「真実が大切だ(truth matters)」だから、そう言うのだ。
(参考:https://www.indiewire.com/2019/08/chernobyl-craig-mazin-hbo-emmys-1202167548/)

なるほど、ジャレッド・ハリスが見事な依代となったヴァレリー・レガソフ博士(1936 - 1988)は、あのラストの裁判で語った真実の代償を払うことになる。それが、KGB のソ連なのだ。しかし、誰もが嘘を言うことに親しみ、科学的な真実が愚かな狂信に過ぎないような世界においても、嘘の代償を払うときがくる。

それがチェルノブイリの事故だったというのが、この「ショー」のテーマであり、ぼくらはフィクションの娯楽を通して真実とか歴史というものを目の当たりにすることになる。それはいわばポスト・トゥルースの時代に逆行する古式ゆかしいトゥルースのショー。そういうことになるのだろう。

ぼくらが生きるポストイデオロギーの時代は、KGB的ソ連のオーウェル的な世界を超越したはずだった。科学的な真実が嘘となり、嘘こそが政治的な真実となるようなディストピアの悪夢から、ぼくらは目覚めたはずだった。

ところがである。そんな終わったはずの時代を、ひとつのショーとして楽しめるはずのぼくらは、フィクションのなかに再現された過ぎ去った時代が、密かにまだ続いていることに愕然としてしまう。

たとえば、日本でおきた原発事故とその後の混乱もそうだし、新型コロナウィルスに翻弄される今もそうなのだ。「真実が大事だ」という標語が空虚に空回りし、ほとんど喜劇的な様相を呈しているではないか。

僕らの時代のヴァレリー・レガソフやウラナ・ホミュックは、嘘と真実を転倒させるディストピアよりも、ずっとずっと達の悪い相手と戦わなければならない。ポストトゥルースの時代にあって、彼らが戦う相手は、中世的野蛮であり、ポピュリズムであり、ついに存在=真実から自由になったと信じるアナーキズムなのだ。
YasujiOshiba

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