ニューランド

小説家の映画のニューランドのレビュー・感想・評価

小説家の映画(2022年製作の映画)
4.4
✔️『小説家の映画』(4.4)及び『お嬢さん』(3.1)▶️▶️

この20年間余りを引きづられてきたこの作家の変わり身と都度思わぬ真実の開示にアッケ続きも、やっとパターン化や社会通念への目配せが見えてきて、安定して楽しめるようになってきた。と、幾分か寂しい気分もしてた最近作だった(勿論、傑作には違いないが、嘗ての様に年間ベストクラス連発とはゆかない)。がこれは、高等な遊びとプリミティブな視点からの堂々巡りも何か抜き出て来てた様な近作から、たいした事件·語りもない、各々に高名や味わいある人生観をいつに増して、語りあうだけの進展のない作品になってる。只、消極姿勢を自覚して受け入れて·そこから打ち出すものだけが、何かをなぜてゆく。直接には響かないがそこへ至る段でもある何か。単にこの映画作家の環境から近いだけで、なんの価値も浮き出ない、市井の人々がうんちくを語るより遥かにメリハリや突き刺すもののない、展開が大元。大方1日の間の、ソウルからやや離れた、景色や人の波調も含んでの和み語りに、映える場で進め終わらすだけで、それに一、二か月後かの半日、締まりが悪いがこれも本論の延長上の、思わぬどん詰まりや本人も気づかぬ開花の側面が尾ひれの様にくっつく構成。これ程観るものをハッとさせない、平凡と偶然と微かに残る模索の気力を、単に固いだけの連ねに終始の作も、珍しい。形だけの新たな創作意欲の欠乏にも見えるが、室内の逆光他暗さと、背景や屋上らの白さを対比させるリズムとスパンに長け、ここには現実の岩盤が剥き出しというより、その個々には意識しない、動かせない絡まりが、1日の内に明らかになる不思議·偶然の形でその絡まる形よりも、そのあり方の質感自体に出てくる。そのあり方の緊張が惹き付け、その気張らない実現の密と伸びは奇跡レベル。
「人付き合いが嫌でソウルから引っ込み、連絡も絶ってた筈だが」「ここでは、いい人間関を築いてるのでは?」「近隣や婦人らの集会所として自由に」/「夫の監督作も落ち着いて、近作は清らかさが出てきてる」「いや、作家のカリスマ性がそちらには」「ここから外を見ても、春が急に訪れたみたいだ。公園の散歩へ」/「勿体ない、それ程のスター性·才能を出演映画に出ないとは」「あたかも、間違ってると言ってるよう。個人の生き方は、自分で決定すべきもの。各々に生き方がある」/「筆を折ったようなもの。現実を等身大でなく、大袈裟に誇張して、アピールしている現状に疲れた。映画をやる夢ある。物語は必要だが、二の次で、登場人物と充てる目を付けた役者が決まってからのスタートで転がしてゆけばいい」/「エッ? 撮影も編集も勉強中なの? 私に協力して短編を実地で作れる」/「私たちの間で、映画を作るの」「出演する彼女の旦那の承諾もあって初めて具体化するけれどね」/「あるだけではない、物語の強い力がないと作品は締まらない」/(「年老いて、)今は穏やかになった。嘗ては本当に怖かった。飲み仲間だったが、一回寝て、しつこくなったので以来疎遠に」/「酒を医者に控えろと? そんなのに従うな 、何も出来なくなる」「彼女も、旦那さんとも約束して、抑えてる。酒好きなのに、身体に合わないんだ。でも本当に純粋な人には違いない」/「都合悪さや外で待ったりで、私は1人で観るの?」/「変わった映画で、ある範囲では受けるかも? それにしても、小説家の映画は、映画人のそれに比べ、意図は明確で、執拗·執念的取組には目を見張った」/「(待ってる筈の)皆は? あぁ、特にここの屋上が心地いいと?」
カメラは一般的には、先の白黒効果·対称を活かし張り詰め伸びやかな輪郭を持たせながら、パンやズームの数は限られ、実に長い固定だけのテーブル囲む数人のやり取りカットもいくつかあり、他のカットもズームインとバックは多くてもワンカット二回止まりで(並木道の俯瞰大Lや、テーブルやり取りら)、全くないカットも多い。しかし、パンやズームの中には、思わね立体的別局面をフッと見せ掠めたりする。いずれにせよ、場とカットと移動の数が限定されており、それは意図的と言うより受身·対面物受け入れの結果的なトーンとも言える。終盤の短い劇中映画シーンだけが、客観存在というより、人物らの心中の行き当たった安らぎのイメージの様に唐突にはまりこみ、それはメイキング映像にも見える。違和も直に温かい作品ではない何か。カメラ目線やCU表情の、本編にない無造作·無警戒にも至る。手持ちが不安定に使われる。手元の大小花の束ねもCU、依頼でカラーになり、白と赤·橙が映え、本編ではなかった女優の赤を中心にした衣装も映る。彼女と私語的会話の助力おばさんも素人の絡み。
偶然知己となった、予てよりファン同士の、 久しく新作を発表してない初老女流作家、インディーズ以外は近年は出演のないかなりの人気女優。その二人と知り合い~嘗てソウルで創作仲間の先輩後輩関係か·ともにこの地に引っ越してきてからの年のやや離れた親友~の·現この地の集会所ともなってる本屋の店長の中年女。彼女が女優を催しのピンチヒッター呼び出して·尾いてきた作家と(朝訪ねて来てくれた以来早早と)再会。近隣の人で店を手伝ってる33が若く見える、元女優もしてた女は、その作家と·あと述べる老大家詩人の予てよりの大ファン。店長が呼んだ老詩人は·女優に尾いてきた作家と10数年振りで再会·よしみを温め意見を戦わす。その終盤で本屋へ集った以外にも、展望台で作家·公園で女優を見つける映画監督と妻、女優の義理の甥で映画作りの撮影と編集担当の映画学科学生、上映会場の手筈つけてくれた彼の知合いの若い助成金らも。が、各々にスタンスや未来はもっていても、周りや観客を突き刺す、天啓や逆説とは無縁なままで、社会的な縛り強い、グレード低の一般人よりも、大した言葉や展開を発することはない。フッと起こる憤りや予てよりの長い対人感·創作姿勢も、かなり軽薄。名を成した人間の深淵や、隠してる個人的な大きな傷痕もあるわけでもない。ロメール的言説より、スコセッシ的しょうもない·何の好転も産まない·下らないポリシーだけがある。意気込んでも、まるで違うものしか産まない。
それにしても、自己の矮小さに突き当たり泣き·狂ったり、秘めた大きな事情や·作劇の大元の併行様式採用からの、観る視点を別個に置き直したり、幻想や幻惑が現実と同次元に降りてきて主体を失なわせかけたりして、一つ自己認識をかき乱し·すりつぶして、より不確かな自己をまんま広げ·引き下げ·より結果的に地に着いてきたこの作家が、味わいも附録も実態としては価値を持たない現実に、溶け込んでるような本作。冷やかなそれと同速度ではみ出すことなく、歩き続けねばならぬ、自覚を全面に出し、その今までにない、撮影切り取りと作中関係の緊張感だけで、勝負してきてる姿は、観る側も創る側も特に意識しないまま、あらゆる映画の到達せんとする最終点であるところを感じる。映画的な言われる快感など消えるしかない。逆光めに室内テーブルで複数が向き合ってるだけ、また野外に立つ姿に留まる·やり取りする数人、窓の外が殆どハイキーで白めになってる図、野外でも木々が立ち込み·地平線が切ってる真っ白を半ば近くに占めさせてる空、ショット間·シーン間の黒い光沢めから白い一面めで切り替わる転換力、双眼鏡眼下の草原と路と米粒人行き来の図のミニチュア感(ズーム入る)、パン人追いや奥の人ズームの·手元アップの同等以上の迫り感らは、映画ルックの美というものではなく、現実と表現、対象と背景、の差を打ち消す、あらゆるものが存在として同格に向き合い·結ばる力がある。アマチュアよりも下手(を敢えて選択期を持つ)くそで周りの知人からも糞味噌(というか未だノーマーク)のこの作家が、そのまんまこの厳粛·厳格さの完全にふと·いつの間にか届いたは、流れ·バランス·詰めとは決定的に別の何かがあるのが映画だということか。
初期の血や出自の地方性の痛々しさと、それを越えて強い泥臭い根っこ。やがて、あまりに弱くだらしなく·人前でも泣くを恥ともしない男という生き物と、それに対面·混乱を誘発·狂いわめく女も、1人では醜さ表し平気で、矮小化·より小ささへ向かい人格的には壊れてく、逆に反比例的に演劇と映画的な開放への圧巻·新次元へ(題材·設定も私小説より身近な、現実の自己環境にだけ、向き合う、完全プライベートと言うよりそこまで見たぁないわ·世界に)。成瀬やブニュエルも平気に侵入。宮部みゆきの映像化作で日本でも知られてきた、スター女優とのコラボ期に入って、社会的な自己世界の置き直しがやや知的に入ってくる。その到達点の一つが、本作で、十八番繰返しから無縁が、真の作家の証左を表してる。この先更に、馴染まぬのが馴染んで追っかけてくのか。
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そんな映画でも演劇的でもない、味わい欠くものより、映画的幻想の話術そのものの作こそを、映画ファンとしては、支持すべきか。『小説家~』の中心人物の1人を演じてるキム・ミニの最も知名度ある『お嬢さん』が併映作で、初めて観る。晴天屋外はクリアだが、多くくすみや闇·スモーキーらが妖しくニュアンスもつ、直線曲がる広角と望遠、寄るや廻る·越え上がるカメラワークの癖と長めウェーブの引き込み·スピード感。アクロバティックであからさまな性技の深くうねるポイントを打つ、視覚·言葉音感の性領域。三部構成だが、ホンサンス的な、イメージ疾走も含めた、別角度からのある地点までの騙し合いの、繰り返し流れから、時併さり、一気に、戦前日本統治下の朝鮮で、名門と富·資産を誇る日本人貴族の末裔に対し、出自をごまかし、貴族然と近づき、結婚後は相手の末裔女性を罠で葬り、全ての遺産を我が物とする朝鮮人詐欺師ら、半昔·そして今の駆け引きと陥れの細部·スケールと展開と視覚の動感。
陥れた朝鮮在住日本人名門の末裔の若い娘を、日本貴族に成り済ましての、たらしこみ、精神病院に収容して憤死させ、一人占めという、詐欺師グループの大計画。しかし、その末裔を当の詐欺師は気に入り、共謀し資産は山分け、精神病院に収容されるは、末裔に仕立てた新侍女と、仕掛け直す。ところが末裔·お嬢様と侍女は、性愛伝授や慈しみを通じ、本物の愛が生まれ、女同士への追手逃れ、カップル男女 に扮し·遠く海渡り·逃げ抜く一方で、詐欺師とバレたをリンチする日本大物を相討ち自壊させてく。
ホンサンスなどに比べ映画の本道の、めくるめく、イメージのいかがわしく、見事な造型のうねりが見事。こっちの方を映画的と褒めそやすには、製作への確信力が弱い。問答無用の粘りに欠ける。
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