耶馬英彦

胸騒ぎの耶馬英彦のレビュー・感想・評価

胸騒ぎ(2022年製作の映画)
3.5
 この春、花見に出掛けた観光地で、嫌な光景を見た。40歳くらいの父親と6、7歳の息子がフリスビーで遊んでいたのだが、父親は息子のキャッチの仕方が気に食わないようで、そのたびに強い口調で注意する。母親はベンチに座って黙って見ているだけだ。あまりしつこく言われるので、息子はもうやりたくないと母親の隣に座るのだが、父親から続けるように命じられ、母親から促されて、渋々立ち上がる。投げるのも楽しくなさそうだ。父親から投げ返されたフリスビーをキャッチすると、再び父親から注意される。最後は泣き出してしまったが、父親はお前のためにやっているんだと叱る。母親は何も言わない。

 とても見苦しいシーンだったが、どう収束するのかが気になって、ずっと見てしまった。我ながら野次馬根性であり、怖いもの見たさでもある。しかし結末はどうということもなく、父親が息子の肩を抱いて、何か言いながら車の方に帰って行って終わりだった。三人の後ろ姿を茫然と見送りながら、あの男の子の将来に漠然とした不安を覚えた。従うことに慣れてしまって、唯唯諾諾とした人生を送るか、または反発してグレてしまうか、そのどちらかになる気がしたが、悲観的すぎるだろうか。

 一方的に独善を押し付ける人間は確かに存在する。ほとんどは親が子供に対してであるが、中には他人に対してでさえ、当然のように自分の独善を押し付け、更には命令までする人間もいる。自分の人権は主張するが、他人にも人権があることを理解していない人間だ。
 そういう人間に関わると、知らず知らずのうちに窮地に陥ったり、不幸な目に遭ったりする。意外とたくさん存在していると思う。アンテナを張って、見分けて近寄らないようにするのが懸命だ。わかりやすい発言をする人もいる。
「犬じゃありません、ワンちゃんです」こういう発言をする人は、あなたを犬よりも下に見ている。
「辞めたんじゃありません、卒業したんです」プライドが高く、自分の間違いを認めないタイプだ。
 発言のニュアンスに偏った価値観を見つけたら、それ以上の会話は避け、なるべく距離を置いたほうがいい。

 本作品では、独善の極みに達した人間がどれほど恐ろしいかを描く。ほとんどの人々は、他人に対して自分をよく見せようとする。その方が得だからだ。独善的な人間も例外ではなく、目的を実現するためなら、他人を平気で騙す。嘘を吐くことも嘘がバレることも、意に介さない。ここまでくると、タイトルの「胸騒ぎ」が作品内容とあまりにもかけ離れていることに気づく。原題の「ゲスト」または「招待客」でよかったのではないか。

 ビャアンとルイーセには、避けるチャンスは何度もあった。しかしビャアンのことなかれ主義が災いして、その場を丸く収めようとするあまり、危機回避ができない。自分からドツボにはまっていく。抜け出すには、人格破綻者との関係を切り捨てる勇気が必要だったのだ。

 この図式は、実は世界中で見かけられる気がする。国家から家族に至るまで、共同体や組織は、独善に陥りやすい危険を常に抱えている。物申す勇気、逃げ出す英断が必要だし、民主主義国家であれば、国内で横行している暴力的な独善に目を光らせなければならない。共同体が個人を助けてくれなければ、税金を納めている意味がない。
 ところが、世界は独善を生み出す傾向にシフトしている。日本も例外ではない。成績に反映される科目としてしまった道徳で、独善的な価値観を植え付けようとしている。教育勅語を暗唱させた森友学園の精神性と同じだ。イスラム教原理主義のタリバンも、キリスト教原理主義のカトリックも、独善を押し付けて行動を制限し、あるいは強制する。
 ドストエフスキーが書いたように、人はパンのために喜んで自由を投げ出すのかもしれない。では、パンを与えて自由を奪うのは誰か。本作品は、ある意味で人類の普遍的な問題を象徴してみせた形だ。犠牲者には事欠かない。実に恐ろしい。
耶馬英彦

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