kkmovoftd

NOPE/ノープのkkmovoftdのレビュー・感想・評価

NOPE/ノープ(2022年製作の映画)
4.3
思えば、何か珍しいものを目にすると、反射的にスマホのカメラを起動して構えるようになってしまった。さして見返すこともないのに、容量を気にしながらとりあえずシャッターを切るようになったのはいつからだろう?
我々は、目の前で起きているコトやモノをファインダー越しに眺めることで、無意識のうちに対象と直接対峙することを避けてはいないだろうか?間にカメラを挟んでいるからと言って、何も中立的な立場が取れるわけでもないのに、一方的な俯瞰者の立場に居るような気になっていないだろうか?映像に映っている人達は、自分を楽しませるためにそこに映っているわけではないと、心の底から思えている人が果たして言えるだろうか?
それを考えると、1979年の時点で、金を払ってLiveを見に来た客にすら「俺はお前らを楽しますためにやってるんじゃない」と『牛若丸なめとったらどついたるぞ!』で叫んでみせた町田町蔵は、まこと慧眼であったと言わざるを得ない。

本作の冒頭では、旧約聖書のナホム書からの謎めいた一節「私はあなたに汚物をかけ、あなたを辱め、あなたを見せ物とする」が引用される。これはストーリーが進むにつれ次第に明らかになってくることだが、本作『NOPE』は、「視る−視られる」の関係性、また映像においてより顕著な「撮る−撮られる」の非対称的な、ある意味暴力的な関係性について、極めて示唆に富んだ投げかけを行っている映画だと思う。

町田町蔵から遡ること90年前、世界で初めての映画のオリジンと言われている、エドワード・マイブリッジによる、馬のギャロップを捉えた記録写真をご存知だろうか。それはまさに映像というよりは活動写真と表現すべきもので、博物館にあるような、覗き窓の奥にあるリールを手で回すと、写真の馬がパカラパカラと走って見えるというようなイメージの代物。この写真に映っている馬の名前と、この馬の持ち主の名前については今なお記録が残っているらしいが、この馬を乗りこなしている黒人の騎手については、何の情報も残っていないという。彼は一体、どんな思いで馬を駆けていたのか。

本作の主人公は、この黒人騎手の末裔であるという兄と妹であり、彼らは全編を通して、ある見えざるものを撮影しようと奮闘する。この「撮影したい」というエネルギーは当初こそ「未知のものをフィルムに収めて金を稼ぐ」「有名になる」というモチベーションに裏打ちされていたものの、チームを組んで困難な取り組みを行う中で、彼らはやがて表層的な「撮影すること」以上の価値を見出していく。

兄のOJ役は『ゲット・アウト』に引き続きダニエル・カルーヤ。前作の軽い兄ちゃん役に比べて今回は物静かで大人しい役柄だが、その分ラストパートの盛り上がりとのギャップが素晴らしい。妹のエメラルド役にはキキ・パーマー。

他にも本作には魅力的な造形のキャラクターが多くて、主人公の撮影チームに加わる鶴太郎みたいなクセ強カメラマン:ホルスト役にはめちゃくちゃ良い声のマイケル・ウィンコット。彼は普段から家で動物の捕食シーンばかりをニヤニヤ見ていて、いざ撮影となると停電しても大丈夫なように手回しIMAXカメラを自作して持ってくる変人だが、なんとこの役柄にはモデルがいるらしい。その人とは、クリストファー・ノーランの『テネット』などでも撮影監督を務めたホイテ・ヴァン・ホイテマ!彼の編み出した斬新な撮影法とは、何とクソデカIMAXカメラを肩に担いでブン回しで撮影すること!!『テネット』や『インターステラー』のあのIMAXかつダイナミックな映像には、彼のこのソリューションが一役買ってるんですね。分かったところで簡単に真似できない気はしますが。

また有名子役だった過去を持つ、鄙びたカウボーイ遊園地の経営者ジュープ役には『ウォーキング・デッド』や『バーニング』で有名なスティーヴン・ユァン。この役柄もなかなか一筋縄にいかない良いキャラクターで、彼が子役時代に経験したお猿のゴーディを巡るエピソードは劇中でも最も本質的なモチーフを成すものだし、彼がどうやら今だにそのトラウマから抜け出せていないらしい様子も何だか物悲しい。
チンパンジーのゴーディ、彼(彼女?)は一方的に視られること、一方的に撮られるという搾取に耐えきれずに暴走したとも言えるし、あの惨劇の中でジュープだけが助かったのも、テーブルクロスで遮られてゴーディと最後まで目が合わなかったことが大きな理由だと言えると思う。あ、あの本作を観た人皆が気になる立っていた靴に関しては、私は「そこに目が行っていたことでゴーディと目が合わなかった」、所謂「最悪の奇跡」のひとつ、という説に一票入れたいです。あの時ゴーディと目が合っていたら、どうなっていたのか。その問いを強烈なトラウマとして、倒錯した憧れとして内に抱えたまま、ジュープは悲劇的な結末に突き進んでゆく。

実際チンパンジーは物凄く危険らしくて、猛獣扱いだと動物園の人も言ってました。アメリカで飼われてたチンパンジーが飼い主の友人女性に襲いかかって、顔をグチャグチャにしてしまったのは有名な事件ですが、被害者の方がオプラ・ウィンフリー・ショー(そう、あのオプラ!!)に出てた姿は、ジュープのカウボーイショーに来てたかつての子役女性と瓜二つでした。嘘か真か、志村動物園に出てたパン君も、長ずるに従って凶暴になったのでテレビに出せなくなったという噂がありましたよね。その凶暴性は果たして生来のものなのか、或いは彼もまた一方的に視られる(撮られる)という搾取構造に耐えられなくなったのか。

他にも本作は、夜の情景を綺麗に映し出すために赤外線撮影した映像と通常の昼の映像を全く同じ画角で撮影して重ね合わせる、という新しい手法を用いていたりだとか、こちらが視ていると思ったら視られていたんだ‼‼という胸熱なコペルニクス的転回や、エヴァからのインスピレーション、AKIRAへの露骨なオマージュがあったりだとか、語りだすと枚挙に暇がないほど細部に渡って作り込まれた作品だった。主人公兄の名前もOJだったが、黒人でOJと言えばO・J・シンプソンを想起するが、これも何か意味があったのかなぁ。
あと個人的には、上空から大量のゲ○だかウ○チだか分からないものをビチャビチャーッ!!!!とかけられるシーンが良かったですねぇ。昨今稀に見る良い汚物シーンでした。

紆余曲折があって、多大な犠牲を払いながらも、最終的に主人公はその姿を撮影することに成功する。それも、最も原始的な方法で。しかし一瞬間後には、その命を賭けて撮ったメディアすらも、ニュース中継がなされていたことが分かり価値のないものとなってしまう。
しかし直後のあの妹の、土煙の中から現れた馬に跨った兄を見た時のとびきりの笑顔は何だったのか?それは、虚栄心や承認欲求に駆られて撮ったどんな写真や映像にも代えがたい、自分にとって本当に意味のある光景(シーン)を捉えた瞬間だったのではないか。エドワード・マイブリッジのあの無名の黒人騎手の活動写真から始まり、最後は映像なのに騎乗して佇む黒人男性の一枚画でバシコーン!!と返してくるのには、本当にグッときました。
何故撮影したその画に意味があるのか。相手を被写体に貶めてもなお、そう、まさに対象に「汚物をかけ、あなたを辱め、あなたを見せ物と」してもなお、そこには撮影しなければならない必然性があったのか。自分の裡にその根拠を、その意志を強く持っていなければ、決して価値のある画にはならない。ラストシークエンスでは、そう言われているような気持ちになりました。

ちなみに先述のエドワード・マイブリッジは、「馬は走っている時に完全に宙に浮くか」という賭けをしている人から依頼されて、その検証のために黒人騎手を撮ったらしい。…まぁ「カネが欲しい」っていうのも、時には強い根拠になり得るみたいですね。


※細かい知識やネタ元は大体このあたりから学ばせていただきました。
https://youtu.be/PIA1sYd-iJE
https://youtu.be/nvMzHvaPO2w


『NOPE』:撮って食うのは誰なのか|kk_note #note #映画感想文 https://note.com/ntkotd/n/nf6e14cb40551
kkmovoftd

kkmovoftd