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ぼくのエリ 200歳の少女のkkmovoftdのレビュー・感想・評価

ぼくのエリ 200歳の少女(2008年製作の映画)
3.6
誰か一人だけ、最愛のパートナーを選ぶということはどういうことか。人間はポリス的動物として共同体の中で生きる以上、関わる人皆にできるだけ親切にすべきであると私は思う。いや共同体から離れて孤島で暮らすにしても、そこで隣り合う生物、存在すべてにできるだけ親切であるべきとさえ思う。

では、その隣り合う存在の中から、差別なく親切であるべき存在の中から、たった一人のパートナーを選ぶとは、一体どういうことなんだろうか?

私は、それは優先度をつけることだと思う。誰にでも親切にすべきという一般則の上位に、この人にだけとびきり優しくするという独自の法を措く、言わば決意のようなものだと思う。それはおそらく、好意の先にある能動的な行為。私はこれを「愛」と呼びたい。

同じように困っている人がいても、まずその人を助けること。一般的にすべきでないとされていることでも、本当にその人のためになるならばあえて禁を侵すこと。この不確定な世界でいつ死ぬともしれないとしても、ずっと一緒に居られるかのように振る舞うこと。あまつさえそれを一緒に信じること。

本作のヒロインは、共同体の一員としては生きていけない致命的な困難を抱えている。彼女が生きるためには、誰かが死ななければならない。もし自分がパートナーとして選んだ人がそのような困難を抱えていたら?私は、共同体の法が何と言おうとも、パートナーのためにその「誰か」を選ぶことこそが、愛の行為だと思う。いやフィクションだからこそこんなに軽々しく言えることなんですけどね。

その意味では、私は途中まで彼女と暮らしていたおじさんに、この悲劇的な愛の、哀しいほどの美しさを強く感じた。愛する彼女のために人知れずひたすら孤独にその「誰か」を選び続け、最後には自分自身が「誰か」となって、彼女が生き永らえるために死んでゆく。これはほとんど完璧な美しい愛の形だと思いました。

主人公の少年の彼はまだそこまでは至らず、その決意を仄めかすような形でエンディングを迎える。それは正直とても暗く孤独で苦しい途だと思うし、君の歳で何もそこまで決めてしまわなくても…とも思う。見方によっては、これをバッドエンドだと思う人もいるかもしれない。

しかし逆に言えば、我々はパートナーを「選ぶ」ことなんてできるのだろうか?前述のように好意の先にある能動的な部分が愛であると規定したとしても、その原動力となるむちゃくちゃな情動のエネルギーは、気づかぬ内に我々を蝕み、気づいた時にはもうそうするしかなくなっているような状態に我々を導くものなのだ。誰を好きになるのか、我々にはそれをコントロールすることはできない。でもだからこそ、どんなに苦しかろうと、愛する人と一緒にいて、相手の為に存在することは、それだけでとてつもない幸福感を伴うものだと思う。そのどうしようもなく綺麗で壊れやすい感覚が、本作ではうまく描かれていたように思う。

そう、くどくどしいことを言ってきたけど、たった一人のパートナーと過ごすことって、理屈抜きにとてつもなく幸せなことですよね。その感覚は論理的には理解し難いものだが確実にあって、だからこそ人は、そしてきっと他の生き物達も、パートナーと一緒に生きるんじゃないかと思う。とても困難な途ではあるんだけど。
group_inouもHEARTって曲の最後で歌ってましたよね。「静かに待つこの中で一人だけこの人って選ぶのは難しい」って。そんな感じです。
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