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サイレント・ランニングのkkmovoftdのレビュー・感想・評価

サイレント・ランニング(1972年製作の映画)
3.5
誰にとっても大事なものはあって、それを守ろうとするのは当然のことだが、果たしてそれが社会の時流に当てはめてみて正しいものと判断されるかどうか、これは全く別のこと。

最早誰も「おきゃん」や「ゲルピン」なんて言葉は使わなくなったし、リョコウバトやステラー大海牛、ニホンオオカミももうどこにも居ない。それ自体は寂しい気もするが、それら消えゆくものを守ることこそが絶対的な社会的正しさかというと、それも少し違うような気がする。

ここまでは社会の視点からの物言いだったが、では個人の視点からはどうか。この主人公ローウェルのように、自分にとって何よりも大切なものを社会や所属する集団が棄却しようとする状況に置かれた場合はどうか。私はこの場合には、個々人には闘う権利があると思う。

どこまで徹底的に闘うかは、棄却されようとしているその大切なものがどれだけ大事かによるが、大きな力と個々人の思いとの相克という点では、ナチ占領下のレジスタンスたちと、珊瑚を守る為に座り込みを行う人たちの間には、本質的な違いはないように思う。闘いの中で人を殺めることについての線引きも、ひいては自分にとってどれだけ大切なものが失われようとしているかに依るのではないか。

本作では宇宙船の中で自らが育てた森、木々や草花、そこに暮らす鳥や兎、亀や蛙といった生き物が破壊されそうになったことで主人公は立ち上がる。それも環境破壊のような漸次的な破壊ではなく核爆弾で爆破しろと言われるのだから、主人公が激昂するのも無理はない。

船団から離れて広大な暗闇である宇宙空間を孤独に流浪する間の、船内での主人公と森とロボットたちとの生活は奇妙だがとても穏やかでやさしく、素晴らしい。しかもこのロボット三兄弟(ヒューイ、ルーイ、デューイ…ドナルドダックの甥やんけ!!)の動きがヒョコヒョコととてもかわいくて、これは何でも、ベトナム戦争の傷痍軍人の方々に中に入ってもらって撮影したらしい。このエピソードも劇中のムードとメタフィジックとのあわいの中で、何とも言われぬ微妙な切なさがあるなぁ。

しかし酸素や水、食料はいつまで持つのか?という疑問や、闘いの中でクルーを殺めてしまったことへの後悔に苛まれて時々自棄になってしまう主人公、また番号ではなく親しみを込めて名前で呼ぶようになったロボット1号のヒューイが作業中の事故で死にかけるなど、孤独な宇宙船生活にはどこか死のムードが漂っていて、観た人の心中に何とも言い難い感興を残す。カルト的な人気があるのはこのなんとも言えないムードが刺さるからなんだと思う。まぁ我々だっていつか死ぬことを何とか意識しないようにして日々目の前のことに取り組んでいるフリをしているわけだから、我々もこの、無理矢理ロボット達とポーカーをしようとするローウェルと同じようなものなのかもしれない。

本作ラストの悲劇については、自らの大切なものを守るために集団に造反した主人公が、それでもなお集団の価値観から逃れられなかった、ということが最大の原因だと思う。言ってみればクルーを殺しちゃった時点で既成社会の構成員たる人間をやめたようなもんなんだから、自分の森の生き物達とロボット達と幸せに穏やかに暮らしていれば良かったのになぁ。でも分かっていても、主人公が「友人とは言い難かったが好きだった」(これもとても良いフレーズだと思う)というクルー達のことを思い出してしまうこと、これも人間の持つ最も美しい部分のひとつだと思う。

DVDのパッケージに記載されている謳い文句「〜宇宙のかなたにたった一つの森がある〜」は、今も無人ロボット(ヒューイの兄弟のデューイ)に世話されながら宇宙を漂い続ける主人公の遺志を示す、とても良いフレーズだと思う。

そう、我々も皆いつか死ぬんですよね。 その後もきっと、世界はこうやって続いていくんですよね。
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