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さかなのこのdojiのネタバレレビュー・内容・結末

さかなのこ(2022年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

前田司郎さんの性暴力報道がなかったら、2022年に観たもっとも好きな日本の映画だった。以下は観終わったときの走り書きで、報道の内容を読み返したあとになんだかいやになってそのままにしていた。下書きに残っていたのをちょっと整えて載せる。

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むかし仕事でさかなクンに取材をしたことがあった。20分くらいの間だったけれど、さかなクンはテレビの中で見るさかなクンそのものであると同時に、「人間」としてそこに存在しているということが、なんだか変な感じがしたし、「ほんとうにそのままなんだ」ということに驚いた。

時間があまりない取材だったし、ある程度企画の方向性に沿って記事をまとめる必要があったので、なにを聞いて、なにを話してもらうかが重要だった。2、3質問をしたところで、魚の種類に話がおよび、そこからさかなクンのエンジンがかかった。ぼくはそのとき葛藤を感じたのを覚えている。

この魚の話はおもしろいし、ぼくとしてはこのまま聞いていたいけれど、残り時間を考えると、どこかで軌道修正しなくてはならない。楽しそうに話すさかなクンには悪いけれど、タイミングをみて必要な質問を滑り込ませて、話はもとの流れに戻った。記事もなんとかまとまったかたちで書いて公開した。

さかなクンが取材での脱線しそうになった話は、ひとに話すと同じような反応を示される。いかにもさかなクンといった感じ、だと。ぼくもぼくで、それをあたかもいかにもなエピソードとして、客観的に話すことができているかのように振る舞った。でも、内心は客観的でもなんでもなかった。ぼくはさかなクンのことがうらやましかった。

この映画はさかなクンを題材にした映画ではあるけれど、主人公をミー坊に、主演をのんさんにすることで、もう一段普遍性のある映画にすることに成功してると思う。

井川遥が演じる母が「それでいいじゃないですか」と話し、柳楽優弥演じる幼馴染が、恋人の放った「いい歳して」のことばに心底がっかりするのは、ミー坊の中に、失われることのないなにか、変わることのないなにかを見ようとしてしまうからだと思う。それは、ひとはだれかの人生を通して希望をみようとしてしまうことにほかならない。この映画はそれを美しく描くだけではなく、ある種の不適応として描いたことは真摯だと思うし、希望を仮託された存在としてのミー坊の姿は、みていて胸が痛くなった。

ミー坊が変わらなかったとしても社会はそれを是とはしてくれない。他者からの視線と現実は、すべてのひとに容赦なく変わることを強制する。それは大人になることとも言えるのかもしれないけれど、同時にミー坊は周囲からは変わらないでいることを求められてもいる。その葛藤が、夏帆演じる母子が去ってしまうシーンで描かれている。求められてなんかいないのにもかかわらず、ミー坊みたいなひとも、守りたいものが現れたときには、つい頑張ろうとしてしまうのだ。

くすくす笑い声が漏れる映画館で、ぼくはひとりで静かに泣いてしまっていた。ぼくもかつてミー坊のように、変わらないことを押し付けられたことがあった。普通の大人のように振る舞おうだとか、誰かを守るだとか、大切なひとを支えなくちゃだとか、求められてもないことにがんばろうとしてしまった。

ラストシーンでミー坊が魚になれたことをうらやましく思う。がんばろうとしたことが裏目に出た帰り道、いつか音楽になりたいと思ったのを思い出した。
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