「危ない時はザリガニの鳴くところまで行くんだ」
「裁判が始まれば、君を湿地の娘と呼んできた人たちが陪審員として判断をくだす。本当の君を知ろうと知るまいとね。君を助けるため、私は君を知りたいんだ」
「避けているのは私ではなく彼らだ」
「湿地は生き物たちの生き抜くための奮闘も知っている。そしてときに、弱者が強者を葬ることも」
6歳のときに両親に捨てられた少女カイア。ノースカロライナ州の湿地帯でたった一人で育ち、自然から生きる術を学んだのだった。ある日、その湿地帯で青年の変死体が発見され、カイアに殺人の容疑がかけられる。そして、法廷に立った彼女の口から語られたのは、想像を絶する半生だった。
そもそもザリガニって鳴くんだっけ?昔、ザリガニを水槽で飼っていたことがありますが、呼吸して泡をたてたり水槽を引っ掻いて音をたてることはあっても、鳴いたりはしませんよね。ザリガニの鳴くところまで行こうとすると、見つけられないまま、湿地をどんどん奥に入っていくことになります⁈あるいはひょっとしたら、コウモリが人間には聞こえない超音波を発して飛ぶように、実はザリガニも人間には考えもつかないやり方で鳴いているのかもしれません?
ザリガニの鳴くところ、それは人間の感覚、理解の及ばないところ。湿地は光輝き生命に満ち溢れた自然豊かな場所ですが、そこに点在する沼地は不用意に入り込んできた生き物を死へと引き摺り込んでしまう暗い場所でもあります。湿地とは人間にとっての善悪も存在せず、人間の価値判断も理解も及ばない、罪も見出さない場所なのです。
6歳で家族に捨てられ、たった一人で生き抜いてきたカイア。彼女は生き抜くために多くの奮闘をしてきました。でもごく限られた人たちを除いてまわりの人たちは、本当の彼女のことを理解しようとせず、偏見による差別をしてきました。人々が彼女のことを名前で呼ばず、「湿地の娘」と言い続けたのも、自分たちとは違う彼女のことを知ろうとせず、理解できないものとして手っ取り早く自分から離れたところに追いやってしまおうとしていたからでしょう。
偏見や差別は良くない、相手のことをもっと知るべきだ、と映画では語っています。けれども同時に被害者の男性に対しては、相手が自分のものにならないと気づくと攻撃的になっていく過程を見せることを通じて、言ってみればサイテーな人間であると映画を観る人たちにこっそりと印象付けしてきます。観ている人は主人公の彼女のことをよく知ろうとして、逆に被害者の男性に対しては詳しい事情もわからないまま偏見による差別に陥ってしまいます。
映画では最後に一つの可能性を見せます。決して事実はこうだったとは断言はしていません。映画を観ている人たちは、映画に張り巡らされた数々の伏線(例えば、カイアがバスの時刻を執拗に確認しているとか)を通じてある結論に導かれるようにできています。でもこれってあくまでも可能性の一つであって、事実とは限らないですよね。観ている人をまた知らないうちにザリガニの鳴く偏見という沼へと引き摺り込んでいるかのようです⁈
上質なミステリーって、私たちに色々なことを考えさせますね。