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ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいの一のレビュー・感想・評価

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「人間辞めたい 植物になりたい」の願いが成就する『散歩する植物』、人間の思いが堆積したモノが文字通り呼吸をし始める『眠る虫』(誰かが拾って杭に被せたのであろう軍手が「バイバイ」とその手(?)を振るシーンが僕は大好きなのだ)を作った金子由里奈が、ぬいぐるみ映画を撮ると知ったときは、彼女以外にこれにふさわしい映画作家がいるだろうかと得心したのだが、本作では、現実社会のしんどさを引き受けた上で、そのナイーブな資質がこれまでで最も激しく発揮されている。登場人物のある部分には深く共感を覚えたり、あるいは別の部分には自らの鈍感さを突き付けられたり、観る人それぞれに強く内省を促す映画だ。社会の構造(ジェンダー)が他者を傷つけ続けていることに深く傷つく者、自らの潜在的な加害性(男性性)に深く傷つく者。他者を傷つけたくない彼/彼女たちは人間ではないぬいぐるみに話しかける。また、その社会の構造を諦め半分に内面化しながら敢えて鈍感に生きることを選ぶ者(「だって社会はそういうものなのだから」)もいるが、その人物の存在は「落ち込みたいまま落ち込める人が集まる場所」である“ぬいサー(ぬいぐるみサークル)”の逃避的なユートピア性に対して常に客観をもたらしながら、そうでありつつ“ぬいサー”の人々に静かに寄り添う彼女の優しさ(優しさとは?)がこの映画全体を最後に包み込みもする。それを演じる元さくら学院・新谷ゆづみがとても良い。内省を続けるこの映画が辿り着くのは、傷つく/傷つける覚悟を引き受けてこの社会に存在するのだという、実際それ以外どうしようもないことではあるが、それは同時に弱い者が弱いままに生きていける社会の実現を要請している。観ながら「自分はここまでナイーブではない…」と感じていた僕も、この主張と主人公・七森のアロマンティックな性向には深く共感するのだった。金子監督らしい無生物への肩入れは、そんな人間たちを黙って眼差すぬいぐるみ視線の挿入によって果たされるし、ぬいぐるみを洗うという行為が傷ついた人間にとってのセラピーにもなっている。序盤、出会ったばかりの七森と麦戸が鴨川河川敷を歩く真横からのロングショットの中で、一人の男が話に何の関係もなくただただ草むらに仰向けに寝そべっているのが一番好き。
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