人が幸せに感じる音はなんだろうか。こんなに身近にあったのに気づかなかった。ラストの効果音がとてもよかった。
フランス人からの無意識の差別をセネガル人が描く作品は三作目。
法廷劇ではあるけれど、セネガル人の被告とフランス人の原告、証人、裁判官の間の噛み合わない認識のズレを価値観から確認していく作品だった。
最初、自分の視点がフランス人と同じだったのが、 <呪術>という言葉が出てきたときに、もし被告が日本人だったら、背景の違う価値観や感情を言葉でどう説明するのか、困るだろうなと思った。
西欧の合理性が世界のすべてではない。
カミュの「異邦人」を思い出す。アルジェリアで生まれ育ったフランス人の被告が裁判官、陪審員のフランス人より、よりアルジェリア人に近く、フランス宗主国の植民地的な<精神の支配>に抵抗したように。
セネガル人がセネガル人の視点で撮った「Black Girl」(1966年)は、自身の立ち位置を教えてくれる。
アメリカの黒人が国内での人種差別を描く作品は数多くあるが、アフリカ人自らが奴隷の歴史を含めて西洋人に染み渡っている差別意識と植民地主義を初めて描いたのが「Black Girl」だった。アフリカ映画の金字塔と呼ばれている。この作品をかなり意識しているように思う。
セネガルには奴隷船の出港地があった。同じくセネガルの現代の若者の恋愛を描いた「アトランティックス」(2019年)では、海を渡って(奴隷となり)亡くなった人々は海から魂となって帰ってくると信じられ、その悲しい祈りを呪術と呼んでいた。
痛ましい歴史をルーツとする民、自分たちの価値観が世界の価値観だと思う民。
どんなに西欧的な教養と知性を身につけても、心は休まらない。安心できる場はどこなのだろう。そんな問いかけでもあった。これは非西欧の国なら同じに思う。
タイトルはフランスの地名だが、奴隷船の着いた港町。被告の出身地はセネガルのダカール。奴隷船の出港地である。