このレビューはネタバレを含みます
映画を観る前はあまり事前情報を入れずに観る派の人間ですが、どうしても"賛否両論である"的な情報は入ってきてしまい、そういった先入観は多少ありつつの鑑賞となってしまいました。
でですね、観てその賛否両論の原因が分かりましたよ。
この『ジョーカー/フォリ・ア・ドゥ』は我々観客が望む"悪のカリスマジョーカー"という存在を一切見せないどころか、これでもかと言うほどアーサーを哀れに惨めに描き、一切のカタルシスを排した、観客の期待をあえて真っ向から否定するような映画だったように思えます。
映画の終盤、裁判中にハーレイやジョーカーの狂信者達がジョーカーに失望して退室するシーンがありましたが、あれは正にジョーカーに対して"悪のカリスマ"を求めてこの映画を鑑賞し、「思ってたのと違う…」と不満を漏らす我々一般観客でもあるのです。
ジョーカーが自分の弁護士をクビにして自分で弁護すると言った時、我々は期待したはずです、ついに悪のカリスマジョーカーがこの裁判をぶっ壊して、検事(ハービー・デント)や裁判長を真っ青にさせるような展開が見れるのだと…
しかし、その期待は真っ向から裏切られます。そう、だって彼は弱くて何もできないアーサー・フレックなのだから。
この映画では冒頭から、彼がジョーカーなのかアーサー・フレックなのかという話が出てきますが、結局のところ映画でのハーレイや狂信者達、また観客である我々が観たいのはジョーカーであって、惨めて哀れで道端で倒れていても誰も助けないような人間アーサー・フレックのことなど見たくはないのです。
ですから、この映画はそんな観客の身勝手な期待をあえて裏切るのです。
「前作『ジョーカー』を持て囃していたけど、結局悪のカリスマジョーカーが見たいのであって、社会底辺で地獄のような苦しみの中生活していたアーサー・フレックという人間自体には一切興味は無いんでしょ?」って監督に言われているようで…
ラストシーンでは、この世界の残酷さや救いのなさがアーサーの瞳から伝わってきます。そうです、彼はジョーカーでもなんでもないのです。「ジョーカーが見たい?じゃあアーサーを殺したこの狂人のことでも見ていてくれよ。」そんな監督の意図が伝わってくる。
そして皮肉のような流れるエンドクレジットでの「That's life」、、「人生なんて所詮そんなもの」だって…
弱い人間、虐げられる人間、馬鹿にされる人間、そのような人たちにとってこの世がとても残酷で救いのない世界であることを突き付けられたようで、絶望的な気分で映画館を後にすることになりました。
【追記】
監督が意図的に観客が観たいような展開にしなかったとはいえ、ではその意図を踏まえてこの映画が面白かったのかと聞かれると少々歯切れが悪くなります。
今作はミュージカル仕立てでであり、ジョーカーやハーレイの(イカレた)心情を踊って歌い上げるわけですが…
これがあんまり盛り上がらないし、(当然ですが)感情移入も出来ないのです。ジョーカーとハーレイの恋愛は、そもそも、ハーレイがジョーカーのことをどこまで好きなのかが終始よく分からないですし、ジョーカーからハーレイへの愛もなんだか盲目的な感じもする。その恋愛をミュージカルで見せられても、どんなスタンスで見ればいいのかが分からないです。
悲惨な現実から逃れるための妄想的なミュージカルシーンだとしても、そもそも感情移入が出来ないキャラですのでやっぱ乗り切れない。。。
似たような意図ではまだ『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のほうが感動的だった気もする。