ナガノヤスユ記

リオ・ブラボーのナガノヤスユ記のレビュー・感想・評価

リオ・ブラボー(1959年製作の映画)
4.2
フレッド・ジンネマン×ゲイリー・クーパーによる『真昼の決闘』(1952)で描かれたアマチュアな(民主主義的な)保安官像に怒りを覚えたホークスとジョン・ウェインが、先行作へのアンチテーゼとして作ったという逸話でつとに知られるエンタメ西部劇。『真昼の決闘』の弱く孤立した保安官の姿には、赤狩りの時代、昨日の友さえも信用できない疑心暗鬼に支配された当時の時勢が反映されたと言われるわけだけど、本作のおおらかで、無骨だが小気味よく、危機的状況下にもユーモアを忘れないキャラクターたちの様子には、およそ同じ50年代に撮られたとは思えない、純ハリウッド的な豪胆さが満ちている。死線を前にしようとも決して慌てふためくことのないジョン・ウェインが、機知に富み、人生の酸いも甘いも知り抜いたような通りすがりの女 (アンジー・ディキンソン) の前では、たちまち我慢を強いられた子どものようになってしまう。そんなベタなロマコメ的サイドストーリーが、悪人たちとの睨み合いのさなかにあっけらかんと挿入される。フロンティア時代の西部という非常に限定的な時間と場所を描く活劇において、同じく黄金期ハリウッド映画という超限定的かつ超局所的な世界のルールで物語を再構築するのが西部劇なのだとすれば、『真昼の決闘』と『リオ・ブラボー』のどちらに西部劇の真髄が存在するかは明白かもしれない。(そんな真髄など糞食らえという見方もある)
正義の価値観は時代によって変わる、というのはほとんど自明のようだが、時代によって変わるものは正義ではない、というアンチテーゼもまた常に可能である。そして正義とは、法とも暴力とも紙一重でありながら、本来的にまったく異なる生い立ちをもつ大いにきな臭い概念であり、一般的な西部劇とは、法と無法、正義と悪、その境界に暴力が炸裂する運動だ。西部劇があくまで正義と法と暴力の表象の交差点に立ち続ける限りにおいて、ホークスによる、この同時代性を顧みない西部劇の時間的射程は、ある意味永遠と言える。時代を捉えるものは常に「早い」が、「遅い」こと、「乗り遅れる」ことには大きな意味がある。連邦保安官の到着が遅れて始まった物語に、馬車に乗り遅れたフェザーズが合流する。気前のいい友情から保安官に協力を表明した親友は、数シーン後には殺される。そうして夜毎「皆殺しの歌」を聞いて死を覚悟する仲間たちが、決戦前夜には呑気に、ディーン・マーティンが歌う絶世の”My Rifle, My Pony And Me”を聞き合唱する。
思うに、映画が生きる時間は遅い。遅いからいいのだ。その時間の伸縮、時空の歪みこそが映画だと言ったら、やはりそれは言い過ぎか。