ナガノヤスユ記

枯れ葉のナガノヤスユ記のネタバレレビュー・内容・結末

枯れ葉(2023年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

昨年のカンヌプレミアでチケット取れなかった苦い思い出から気づけば8ヶ月越し。なんだかんだとタイミングを逃し続け、おなじみのユーロスペースにてようやくの鑑賞。
カウリスマキの新作がまたしても見られたことの喜びを噛み締めつつ、端的にいって自分は驚いてしまった。恥ずかしながら、労働者3部作の系譜に位置する作品と聞いて、引退宣言を撤回した巨匠 (という表現がもっともおさまり悪そうなシネアスト…) のよくあるセルフパロディくらいのものを想像していた。いや、むしろ、『希望のかなた』以来のカウリスマキ新作が見られるなら、それでも全然よかった。しかし、カンヌの公式コンペで審査員賞までも獲得した、このやや時流はずれのプロレタリーな古典メロドラマ(!)は、たしかに往年のカウリスマキスタイルへの回帰を存分に感じさせ、たぶんに自己言及的な側面もありながら、それをなお更新する新鮮さと軽やかさに満ちていて、けだし素晴らしいとしか言いようがなかった。
監督のスタイルを決定づける、人物たちの静謐なアティテュードと時間的空間的省略によるエコな演出。ペロンパーとオウティネンのコンビに勝るとも劣らない、新たなフィンランド映画界の至宝の発見(あてがきを多用する監督の現役復帰を決意させた要因には、彼ら二人の発見が大きく関係しているはず)。映画内の完ぺきに充足した情景と美術に、必要十分でそれを見つめるカメラワークの倫理。小さな運動と静止が小気味よく連なっていく編集のリズム。81分。これらはもはや、芸術性と経済性のバランスの極致に達しているといっていい。
しかし、そんなことはいまさら当然だ。なんせこれはカウリスマキの新作なのだ。それよりなにより、自分が本当に驚いたのは、カウリスマキが今なお、これだけ静かに、ただしく怒りに燃えていて、それを感情と理性とそれらを橋渡しするユーモアによって、80分の時間に結晶させた事実だ! このひどい時代、文化としての映画が消えかけようかという現代に!
カウリスマキの怒りは、旧・労働者3部作の時代より基本的に一貫している。あえて一括りに断言するなら、その矛先はずばり資本主義であり、人間を労働力商品としてしか見ない社会であり、そのシステムをグローバルに輸出し植民していく現在進行型の帝国主義である。(その帰結としての戦禍と虐殺は、街角のスーパーから、遠く離れたウクライナの地まで、地続きである)
作品のもつ過酷で暴力に満ちた背景に比して、カウリスマキ作品にはどこか朴訥で温かい、人情もの的なイメージもつきまとうが、一方でカウリスマキの明確な、分かりやすいオブセッションのひとつに機械への眼差しがある。その冷たく無機質な運動をカメラで捉えることに、カウリスマキはひどく固執していて、『マッチ工場の少女』では、冒頭数分間にわたってマッチの機械生産が見つめられ、その最後にようやくカティ・オウティネン演じる主人公が登場する。カウリスマキの描く賃金労働はいつも物憂げで、機械的で、働く喜びといった感情からは縁遠いように思われる。人間の精神はのっけから引き裂かれている。(粉々の鏡にうつるホラッパの顔)

「機械」とはもちろん資本主義のひとつの象徴であり、はたまた、人間に取って代わるもの、代替物、交換のシンボルである。カウリスマキの映画には、資本家はもちろん、アーティストや作家、職人など手に職をもった(生産手段をもった)存在は基本的に登場しない。(レニングラードカウボーイズはじめ各作品に必ず登場するミュージシャンと、「ハムレット…」の資本家、「コントラクトキラー」の殺し屋は希少な例外)工場のラインワーカー、ゴミ収集の清掃人、スーパーのレジ打ち、砂かけ労働者。誰もがみな機械の隣で仕事をしているだけでなく、まるで機械の部品のようにそれはいつでも交換可能な存在として扱われている。
彼らは黙々と仕事をし、ある日当たり前のように捨てられる。カウリスマキ映画の物語はいつも「捨てられる」ことから始まるような気がする。捨てられて、ボロボロになり、どうにか拾われるが、また捨てられる。機械と並置され扱われるというスタティックで非人間的な構造を、登場人物たちが本質的に克服することはついぞない。
その圧倒的な現実を前に、彼らはどうするのか。逃げるのか、抗うのか、はたまたファナティックな祝祭的リビドーやイリュージョンを追い求めるのか。否、彼らは彼らの中にだけ、ほんの小さな革命を起こす。そうして得た極小の喜びによって、この強固な現実を僅かながら変性させ、(ここから先は描かれていないが)構造と戯れながら、しぶとく生きていくのである。
そのための、ほんの少しの差異を生み出す、徹底的に抑制されたアティテュードと、瞬間の限りない喜び。あの瞬間に爆発するミリ単位のダイナミズムが、カウリスマキの革命である。(本作の終盤で、あまりにも素朴に、さりげなく、だからこそ美しく捉えられたアンサの微笑み…)
しかしながら、ただこれだけのストーリーライン、演出ならば、すでに多くの作家によって模倣され、中にはよっぽど明快に描かれているものもあるだろう。ではなぜ、カウリスマキが特別なのか。なぜ、カウリスマキ作品だけが、これほどの強度と説得力をもって、その表面的な優しさとは異次元の怒りと、それを包み込むような深い慈愛を表現しうるのか。
それは、カウリスマキ映画が、唯一無二といっていいほどの完全なる芸術の経済を、商業映画のフォームの中で体現しているからに他ならない。しかも、ハリウッドはおろか、カンヌやベルリン、企画段階においては首都ヘルシンキからさえ遠く離れた場所で。今この時代に、カウリスマキ自身の制作会社名「スプートニク (ロシア語で「衛生」の意…)」が意味するものよ。
映画は、その物語的な意味内容の中でいかに資本主義の殺人的悪辣さを糾弾したとしても、映画自身が多くの労働商品と資本の結集として作られているという自己矛盾から、決して逃れることができない。100万ドルの映画が作られるということは、その瞬間100万ドル以上(より正確にいえば250万ドル以上)で売ることの始まりであり、そのM—C—M'のゲームは永遠に終わることはない。この社会を告発すべく、いい映画を作ろうとすればするほど、その作品は誕生以前からこの経済ゲームの中に包摂されてしまう。(その事実を認めない映画が仮に商業映画のレベルで存在するとすれば、その構造内部では、作り手が同僚を搾取している可能性が非常に高い)
安ければいいというわけではもちろんない。あまり好きな言葉ではないけど、それはサステナブルじゃない。大切なのは、映画というアートフォームの中に経済との最適なバランスを見いだし、そこに美的感性のすべてを余すことなく注ぎ込むことである。だからこそ、アル中の砂吹き労働者が主人公のカウリスマキ映画は、絶対に100分を超えてはいけないし、ヒロインには友達がろくにおらず、家にまともな食器は1セットずつしか存在してはいけない。皿が1枚しかない、から、物語は美しいし胸を打つ。女性の部屋だし画面が寂しく見えるといけないから、と監督が美術担当に不要な皿を10枚も20枚も発注するような現場では、この物語の神性は決して生まれないと断言する。セットデコレーターが完ぺきに並べた20枚の皿は、アンサの部屋に置かれた1枚の皿に勝てない。
そして、だからこそ逆説的に、たった1枚の皿を買うことに金以上の価値がある。そして、それを割ってしまうことにも。
この社会で、すべては交換可能である。皿がないなら買えばいい。賃金労働者は、経営者の都合に合わせて無限に取っ替えてしまえばいい。連絡先や個人情報はその場で半永久に記録され、風に吹かれて失くすようなことはない。そして、時間こそが金なのだ。過去の映画を名画座で見たり、ましてや来るあてのない人間を、一晩中ただ待つだけなんて、あまりにも不毛である…。
昨年の公開以降『パラダイスの夕暮れ2』とも称される本作を端的に表現するならば、古典的メロドラマのパロディということになる。だとすれば、意味の無化したすれ違いの果てに互いを選び合うメロドラマの形態こそ、この終わりなき交換に与し続けるしかない社会の中で、私たちが唯一自分たちの存在を確かめるに相応しいフォーマットなのではないか。うかつにもそんなことを言いたくなる。
ただしく怒ることは実は難しい。この社会は、人が作品に込めた怒りさえも巧妙に取り込み、一種の燃料、労働商品として包摂してしまう。
そんな社会から「ここではないどこか」、未開拓で謎に満ちた、野蛮なカオスの中(としての’エストニア’)へと踏み出していくのが『パラダイスの夕暮れ』のラスト (「毎日イモだ」) である。それから約40年、もはや世界には、物理的にそんなユートピア (orディストピア) の余地は残されていない。アンサとホラッパが(チャップリンと共に)歩み出していくのは、やけに明るい、色づく光の中、もっとぼんやりとした不明瞭な未来かもしれない。カウリスマキの映画は、見た目のリアリズムを超えて、いつも少しばかりのイマジネーション (それは時に、ノスタルジーの形をとるが、必ずしも懐古を意味しない) を内包する。
彼らは何も語らない。怒らない。抗わない。なにかを代表しない。ただ自分の中に、それまで見出すことのなかった小さな発見をたずさえて、生きていくのみである。その生き方自体を、誰かが金で買うことはできない。彼らが彼らのためにした選択は、賃金労働をめぐる社会の有機的運動からは、些かズレたダイナミズムを構築しはじめる。それを恋だの愛だのと呼べるなら、それでいい。
ペーター・フォン・バーグによるカウリスマキのインタビュー本『アキ・カウリスマキ』(森下圭子訳)中、「パラダイスの夕暮れ」についてカウリスマキ本人の談。「(『パラダイスの夕暮れ』は)人を操作するような奴らへの反撃だ。女性誌、雑誌、そのレベルにまで堕落した夕刊タブロイド紙、アメリカのシリーズばかり登場するテレビ、そしてそういうことを人々にたきつけていくことで飯を食ってる奴ら。ゆっくりと、しかしながら確実に、仕事や人間関係、幸福についての考え方を間違ったものにしていくものに対してだ」
カウリスマキの怒りには、今なおまったく色褪せない煌めきがある。

本作の公開に際して企画されたカウリスマキ特集の中で、生涯ベストのひとつでもある『パラダイスの夕暮れ』を、はじめて35mm上映で観ることができた。本作より先に観て、本作を観て、また見返して。この作品を通して、その素晴らしさがまたひとつ異なるレイヤーをもって甦った。