肉浪費Xアカウント復旧無理ぽ

零落の肉浪費Xアカウント復旧無理ぽのレビュー・感想・評価

零落(2023年製作の映画)
3.2
斎藤工がJKの白い膝裏にときめき風俗(デリヘル)嬢にバブみを覚え沼にハマったっていいじゃないか
だって漫画家だもの
"最後の落胆"が漫画家、クリエイターに限らずともわかる人には"強烈"だもの

漫画家という生き物、薫(斎藤工)という生き物、浅野いにおという"漫画家の本質"と錯覚する"書きたいもの/売れるもの"の葛藤に踊らされる"哀しき職業メタ"

長期連載を終えた人気漫画家のはずが、ピークが過ぎたか次作への意欲も同業界の妻との夫婦生活もアシスタントとの強化の関係も全部崩れそうな今…「嬢」に光(依存)を見出す
そう、世は推しドルじゃない。"推し(風俗)嬢"の時代なのだ(おじさんはいつだってそう)

ダンボ…じゃない「ゆんぼ」ちゃんご指名をなぜ貫かない!
その時点でこの映画よ、斎藤工よ、"失敗"だ!
結局「趣里(ちふゆ)」に目移りしてファムファタるからこのザマよ!(笑)
風俗嬢に救いを見出し、ぶらりとソープやデリヘルを批評家の如く堪能していく「孤独のソープ」なる漫画家の脱線を描いた話じゃなかったんすねー(遠い目)
そんなもんじゃ、天下の「浅野いにお」大先生となんも関係なくなってくるし(勿論原作未読)、それでこそロマンポルノやピンク系のアダルティ映画になっちゃうんですけどねw
そんな設定なのに、「PG12」で発信しようという"不甲斐なさ"が描く内容に通ずるなんて言えば、聞こえは良くなるがそんなこともなく、"原作"作風遵守かも知れませんが、もっと"大人、大人"していて良かったかな?と…

でもそれにしても、斎藤工さんの佇まいやイケメンの如し!と言わんばかりに"如何に落ちぶれようとも斎藤工、風俗通い魔でも斎藤工"ってな具合で、様になるって言い方は変ですが、そこまで好感度削られないし、嫌いになり切れない"イイ男"感はもはや「罪」ですよ!(え、そんな話じゃない?)
そっちの業界の奉仕する方も、視聴者の女性もなかなかのクズ男なのにダンボ女子に頭を預けて甘える姿には(ポッ…///やだイイ男…むしろこっちが抱かれたいわ…)と思うこと、匠の如し!(工だけに😉)
まあ何が言いたいかというとズルいっすなぁ…とあまり見ていて嫌悪感に塗れず、斎藤工さん自身も陰キャ寄りの素性を持っていたはずですから、朴訥とした"激情を秘めてる"感じが様になり過ぎるんですよね。

と、全フザケ半分に書いてまいりましたが、「竹中直人」監督作で原作にあった演出かも知れませんが、多少"心象風景"のキービジュアルではあるものの、海や波打ちの映像を逐一挿入する"意味深風"演出には(ダッサァ!!)と正直に思ってしまってすみません、ハイ…(笑)
それに添加される形で、こちらは原作からの雰囲気を再現かはわからずとも、浴槽に二人で浸かって抱えてる感じの会話や、海辺の対話シーンの"抽象的深そうで深くない会話"など、90年代中心の二千年以前のウォン・カーウァイ監督を代表とする「香港ラブロマンス」風の映像で、(おいおい、今令和だぞ…20年超えでこんなの撮るのか!?)とやや"タイムスリップ"したかの興奮を覚えたので、刺さる人には刺さる、おそらく竹中直人節の"古風"演出かと思われますw(良くも悪くも)
趣里さん演じるデリヘル嬢なんて、「〜だわ」の平成はおろか昭和にまで遡るハタチ前後で出せるわけのない"古風"キャラクターですからねw

だからなのかちょっと、漫画原作からの"リアリティ重視ではない"過剰、極端な演出がやたらと目に付くのは実写向けの互換、洗練化が成されておらず"シュールさ"もかなり抽出されて実写映画としてはかなり雰囲気がチグハグな気がしてきますね…
そこが"浅野いにお節"の独特"味"と言える部分も勿論あるのですが…ただ、描いてる部分って漫画家ならではの"漫画道"の葛藤と、堕ちる所まで堕ちて辿り着く"結論"と"シビア"な物語でもあるので、"ツッコミどころ"と変換されてしまうのも考えもの…

ただ、そのシュールさの中でより一層輝いていたのが"山下リオ"さん演じる薫の連載に最後まで付いてきた古参アシスタントで、雇い主漫画家の主人公がほぼ筆を折るようなブランクに陥ると知るや手のひら返しでアシスタント時のストレスを全力で返す狂気っぷりが、"悲喜劇"レベルまで映画をよくわからないジャンルにまで高めてくれたので、相当な好演でしたw
でもこの"◯◯ハラを訴える元部下"という構図は、結構重要な要素でして、漫画家、「薫」自身を形成する上でもかなり"鍵"となったので、もっと"連載時代"を丁寧に描く必要があったと思いますね…
この映画の描き方じゃ、想像力、読解力のない視聴者には"アシスタントが狂ったサイコパス"として目に移り、心情が薫(工)に傾く方が多い気がします…
終盤になればなるほど薫の"「漫画家」としての偏屈さ"が明らかになって感情移入の偏重も傾きが変わっていく可能性がありますが(特に女性視点からすれば…)、それでだってまだ薫の"屈折具合"が伝わりづらい部分があると思います…
ここは、ほとんどの人が表面上で簡略化した受け取り方をしていない『TAR/ター』にも通ずる部分なので、共に真相を描いてないものの大事に扱う必要があったかと思われます…

「海」映像を「ダッサ」と断じはしましたが、それ以外にも制作事務所の向かいの窓に見える"意味ありげ"で全くなかった女性の影や、薫自身のSNSに応援メッセージを完結しても送り続ける"女子高生(らしき)ファン"のリプライなど、そこに"トリック"や"真相"を秘めた伏線はなかったのですが、"薫自身の日常"を形成する上でそのふとした"意味深さ"は原作由来かも知れませんが、逆に"リアリティ"の点で良かったです。
そのひたむきな(好みかも知れないオナゴ)信者(ファン)がそれとなく"救い"となる心境も。

それなのに、それなのに、最後の最後に"突き放される"…
誰も"自分"をわかってくれない
という"諦観"と『孤独』は「クリエイター」が抱えがちの共通項なのかも知れませんね…

ここは、今まで支えにしてたものはなんだったんだ?今までの漫画家人生とは?この映画で描いてきものは?
と全ての地盤が崩れさるかのような"効力"は凄まじかったです。ここだけは特筆に値して、これがクリエイターだったら更に"虚空に投げ出される『虚無』"感を感じるのでは・・・?と寒気を覚えましたよっと😉