参考文献

怪物の参考文献のネタバレレビュー・内容・結末

怪物(2023年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

バカ長ネタバレ感想文


監督・是枝裕和と脚本家・坂元裕二が初タッグを組み話題となった映画『怪物』が2023年6月2日に公開された。また同作は第76回カンヌ国際映画祭で日本映画として初のクイア・パルム賞(2010年に創設、LGBTQを扱った映画に贈られる)と脚本賞を受賞し、日本メディアでも大きく取り上げられた。

これまで是枝と坂元は同じ作品に携わったことがないながらも、家族を再形成するプロセスや疑似家族に焦点を当てて作品を世に送り出してきた。その中でもこどもの描き方について早稲田大学文化構想学部教授の岡室美奈子は「血縁の親だけが子育てを担うシステムは既に破綻をきたしているという認識が、おそらくふたりにはある。」(2023 p.37)と語る。現行法という枠の中では犯罪になってしまう人々を是枝と坂元は映画やテレビドラマを通して丁寧に描いてきた。そして社会という規範と枠への問いを追求し続けた彼らが出したひとつの答えが映画『怪物』である。

『怪物』における枠は法律ではなく、人々の、作中では主に大人たちの無意識である。
本作は3部構成となっており、同じ物事を違う人物の視点からアプローチする。クリーニング屋で働くシングルマザーの麦野早織は一人息子の湊を愛しながら穏やかな日常を送るものの、湊が担任の保利道敏にいじめられている疑惑が浮上する。早織は湊を守るため学校に乗り込み、やる気のない校長や、形だけの謝罪をする不誠実な教員の対応に抗議を重ねていき、次第にモンスターペアレントの様相を見せる。一方で保利は湊が同級生の星川依里をいじめていると疑うものの、真実はここにはないことが終盤で明らかになる。
湊の視点で描かれるのは大人の規範に則れない自分とその周囲のこどもの世界である。岡室は、心の内に何かの拍子に火を噴く怪物的性質を「怪物性」と定めたうえで、誰もがこの怪物性をもっているという。また、大人の無自覚な怪物性に対し「大人の価値観から逸脱する湊や依里だけが自らを「怪物」と認識せざるをえない」とする(2023)。
早織はラガーマンだった亡き夫との「湊が結婚して、家族を作るまでは頑張る」という約束や、喧嘩した湊と依里に保利が言う「男らしく握手しよう」も二人にとっては自分たちを規範外とみなす呪いとなる。依里の父親の清高は、依里について「あれはね、化け物ですよ」「頭の中に、人間じゃなくて、豚の脳が入ってるの」と心無い言葉を放ち、植物が好きで名前を覚えることに対しても、「花の名前知ってる男は気持ち悪い」と定義付ける。自身に「…何で生まれたの」と問う湊も、虐待やいじめを受けながらも諦め「感じないようにする」手段を取っている依里も規範の中にいる人々にとっては怪物や宇宙人であり、ふたりにとっては秘密基地の電車だけが社会の規範が適用されない安全地帯だった。大人たちが無意識に定めた枠からはみ出してしまう湊と依里は、アイデンティティに葛藤しつつも生まれ変わりを期待するしかない。

 クライマックスでは3部構成の全てが帰着し、大人たちも届かない光に満ち溢れた世界で湊と依里は生まれ変わりについて「ないよ、もとのままだよ」「そっか。良かった」と自らを肯定した。このシーンについて、是枝は「彼らが自分たちの生を肯定して終わろうとは、台本の段階から共通認識としてもって」いたと話している(2023)。ビッグランチを想定して旅立ちの準備をしていたふたりの電車は、嵐の中で出発し新たな朝を、自分たちの世界を迎えることとなる。この秘密基地の電車は宇宙を彷彿とさせる内装が施されており、また、嵐の中で早織と保利がふたりを捜索するシーンでは泥を被った車窓を叩きつける雨が星の瞬きのようにも見える。依里曰くビッグランチでは時間が戻り、電車も後ろ向きに進み、人間は猿になってまた宇宙が出来る前に戻るというように、湊と依里は大人には立ち入れない自分たちだけの世界を、一から再構築し肯定することで獲得したのだった。しかしそれは祝福されるこどもたちの世界から、大人(僕ら)は置いていかれることだと是枝は言う(2023)。我々大人は既に無意識の規範にがんじがらめになっており、視線は常に自分の常識のもとに置かれている。湊と依里が獲得した世界にはそういった大人の存在が求められていないことは明らかである。

 しかし、だからと言って大人に救いがないわけではない。坂元の焦点は常に人々のわかろうとする行為にある。坂元はわかりあえない人々のコミュニケーションを執拗に描き続け、また同時に誰しもが加害者となる危うさを孕んで生きていることを示し続けてきた。『それでも、生きてゆく』(2011)では、加害者との絶望的な断絶を描きつつも、それでも理解し続けようとする被害者家族の姿を取り上げた。また、『Mother』(2010)では普通の母親が愛していた自分の娘を虐待するようになるまでを描くことで誰もが虐待する側になってしまう可能性があるとした。特に顕著なのが『初恋の悪魔』(2022)であり、全ての人が加害者の一面を持つ可能性があるとしている。「人間は人間の全てを理解しているわけもなく、どんなことも起こり得ますし、人間には普通も異常も正解も不正解もありません」という台詞にあるようにどんな人間の怪物性も特別なものではないのだ。
本作では無意識に使われる「男らしさ」という言葉であったり、こどもたちが冗談で言った保利のガールズバー通いの噂が、悪気なく保利の知らないところで事実となり広められることであったり、誰しもがじわじわと加害者となっていく過程が描かれる。早織や保利は「その罪について気付き考えていく時間がここから生まれる」(2023 坂元)ように大人にも世界を再構築する希望は残されているのだ。また、無意識の怪物性は作中だけではなく観客自身にとっても思い当たることが少なくないであろう。坂元は「お客さんに加害者の主観になって体験してもらうことができる」作品の形として本作があると言う(2023)。加害者の視点を組み込むことで観客は自身の怪物性及び湊や依里と向き合う機会を得る。同じように校長の伏見真木子は自身の駐車ミスで孫を轢いてしまい夫に罪を被ってもらったことで噓と保身のために怪物性を露わにするが、自身と同じく嘘をついた湊に管楽器を通して寄り添おうとする。これらのことからも、こどもたちのたどり着いた世界は大人の届かないところにあるが、こどもと大人の決定的な断絶を意味するものではないと言える。

 また、『怪物』はLGBTQをテーマの一つに取り上げた作品であり、湊と依里がその当事者として描かれている。湊は作中で依里への好意を自覚していくにつれ自身のアイデンティティにゆらぎ自らに怪物性を感じていくようになる。依里は自身の性的指向について認めているものの、自らを「豚の脳」「病気」という。湊と依里を縛るものは前述した社会からの無意識的な規範の押し付けである。親も担任も、同級生でさえも、ふたりが生物学には男性であることから「男らしさ」を要求し、へテロノーマティヴィティ(異性愛規範)のもとに生活を送ることを疑わない。また、依里をいじめる同級生たちはクラスメイトの女子の容姿を嘲笑い、依里に同じこと言うように強要する。依里はそれを拒否するものの、同級生たちは「なんで女子の味方すんの。おまえ、女子?」と言い放ち、依里と男子児童がキスするように囃し立てる。同級生たちにとって彼ら自身のホモソーシャルは、ミソジニー(女性嫌悪・軽視)やホモフォビア(同性愛者嫌悪)で成り立っており、それらに馴染むことのできない湊や依里は自動的にそのホモソーシャルから排除されてしまうのだ。同級生たちは湊や依里を枠から外れた規範外の怪物扱いすることで、自分たちが所属するコミュニティの結束を強くする。
 一方で湊と依里を理解者しようとする人が一人もいないわけではない。ふたりのクラスメイトである美青はBL本を愛読しており、湊と依里の関係にも気付いていた。本編ではカットされているものの、シナリオには湊にカミングアウトを促すシーンが残されている。その中で、美青は「わたしはね、応援してるの」「二人の関係はね、尊いものだよ」(p.136)と言う。しかし、日頃から“BL”をエンターテインメントとして享受している彼女が湊と依里の心情や葛藤を本当に理解しているかと言えばそうではないだろう。その証拠に、美青がカミングアウトについて「自分で言えなかったら、わたしが代わりに」言う提案をするが、湊は「そんなことしたら殺す」と怒りを露わにする。そもそもカミングアウトや性自認については、まず当人の問題であり他者が土足で踏み込んでいい範疇ではない。これはフィクションの話だけではなく、現代社会のエンターテインメントにおいても同じことが言える。昨今ではLGBTQ、セクシュアルマイノリティをテーマにした作品が多く作られ、人気を博しているものも少なくはなく本作もその一つであると言える。しかし、ほとんどの作品が大衆に向けて作られている以上、ある程度は脚色され物語や登場人物はエンターテインメント性を持っている。これらはLGBTQの存在や現状の周知を図るには適当である一方で、単なるエンターテインメントとして消費されてしまう危険性を孕んでいる。
また、本作は日本でのプロモーションにおいて、セクシャルマイノリティを扱っていることが伏せられていたものの、カンヌ国際映画祭においてクイア・パルム賞を受賞したことでそれが明らかとなった経緯を持つ。このことに対し、映画ライターの瀧川かおりは、現実世界において「セクシャルマイノリティが存在することは、とくに驚くようなことではない」とし、「もし本作が登場人物のセクシャリティをストーリー上の“サプライズ”として設定しているのであれば、それはあまりにも異性愛中心主義的ではないだろうか」と疑問を呈する(2023)。だが瀧川の見解は一理ある一方で再考の余地がある。坂元はドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』(2021)でもセクシュアルマイノリティを扱ったが、同作品内でもそれらは大仰に取り上げられるわけではなかった。これはLGBTQやセクシュアルマイノリティであることが特別な物語として扱われることに意義を唱えるものであると考えられ、また『怪物』でも同じことが言える。しかし、エンターテインメント業界及び観客、ひいては社会はLGBTQへの理解の成熟を今後急速に求められることは明白である。

 さらに、本作は“問い”が重要な要素である。是枝は、本作を撮影するにあたり台本のページを開いたところに「世界が生まれ変われるか」という一文を咥えた。これは2007年の坂元のドラマである『わたしたちの教科書』に出てくる「世界を変えることはできますか」という問いから想起されたものであり、「作り手である自分に常に問いかけよう」というスタンスで撮影に臨んだと言う。是枝は、当時『わたしたちの教科書』を「世界を変えられない人の話、そこから抜け出そうとする人の話」と捉えたと話しており、このテーマは『怪物』と地続きだと言える(2023 p.35)。
 また、坂元も「答えについて描くのではなく、問いについて描きたいと思っていた」と話す。映画のタイトルの最初は『なぜ』であったことを明かし、今作においても「なぜこんなことになったのか、お客さんにも考えてもらえたら嬉しい」と語っている(2023 p.42)。坂元は以前から自身の作品を「生きづらい人」に向けて書いている(2018)としており、本作については自分の中にあるものを「1人の人を想定してその人に向かって届ける」ように書いたと話す(2023)。
これらの問いは大衆へ映画という媒体を通して発信され、観客はこの問いの答えを永続的に模索し続けることになる。そして、その答えの一つは映画の中で伏見によって語られていると言えよう。本作において、こどもたちは大人の無意識的な規範の押し付けによって生まれ変わりを期待せざるを得ない。また、大人は最終的にこどもたちの世界から置いていかれることになるが、この映画は決して誰もが幸せになる可能性を否定していないということが「誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもないしょうもない。誰にでも手に入るものを幸せ」という台詞から読み取れる。そうしてこのシーンの伏見と湊が吹くホルンとトロンボーンの音色は、言葉にならなかった想いを乗せてあまねく人々に届くのだ。同じように、終盤では嵐が分け隔てなく街中の人々に雨を降らす。そこに加害者か被害者かの区別は存在しない。誰しもが怪物性を持ち、加害者になる可能性を孕んでいることはもはや本作の終盤では明らかである。湊と依里の祝福された世界を、早織を、保利や伏見を、その誰をも否定することなどできないのだ。そしてそのことに気付くとき、我々も自身の怪物性と向き合うこととなる。私達は世界を変えることはできるか、その世界は祝福される世界なのか、問い続けた先にしか答えはないことを『怪物』はひかりの中で提示する。


参考文献
・2023 『怪物』パンフレット 『怪物』製作委員会
・2023 『SWITCH 6月号 『怪物』が描くもの』 スイッチ・パブリッシング
・坂元裕二 2023 『怪物』 KADOKAWA
・田中正人 2019 『社会学用語図鑑』 プレジデント社
・Iris Gottlieb 2021 『イラストで学ぶジェンダーのはなし』 フィルムアート社

参考資料
・2018年11月13日 「プロフェッショナル 仕事の流儀」 NHK総合
・役所広司が男優賞、坂元裕二が脚本賞を受賞 第76回カンヌ国際映画祭の受賞結果を総括 https://realsound.jp/movie/2023/05/post-1337409.html (2023/6/13アクセス)
・是枝裕和監督最新作『怪物』レビュー──わかろうとすることの先にある希望 https://www.gqjapan.jp/article/20230602-kaibutsu-movie-minako-okamuro-review (2023/6/12アクセス)
・是枝裕和監督&脚本家・坂元裕二、映画『怪物』は加害者の主観を「体験」結末についても語る https://news.mynavi.jp/article/20230610-2701604/ (2023/6/12アクセス)
参考文献

参考文献