肉浪費Xアカウント復旧無理ぽ

君たちはどう生きるかの肉浪費Xアカウント復旧無理ぽのレビュー・感想・評価

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
4.1
千と千尋の価値観で"まだ"生きて行くのか、サギおじさんとどう共存していくのか
ジブリワールドを創造してきたMADな神がまた身終いの"破壊からの次へ"と託す

宮崎駿、(暫定)生涯終作はリアルから抜け出した『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』のハイブリッドでありながらどの監督作にも覚えがある要素の集大成で、戦時でありながら"後世への遺言"

戦時の火事で母を亡くし、早くも父がその妹の叔母を継母として豪邸で新たな人生が始まろうとした時、執拗にコンタクトをとってくる青鷺の出現と新たな母(継母)がゴーン(行方不明)した事で、敷地内にある塔の地下から意思をもった鳥たちが奏でる不思議な世界へと足を踏み入れる事となるーーー

ジブリ(宮崎駿作)の後編はキムタクではじまり、キムタクで終わる

まさか、あの二つ目(二段四つ目)の鳥の神聖、あるいは異形のイメージがあれとはね…(赤っ鼻オジサーン)
やはり宮崎駿監督作、原作とは名ばかりの吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」の"インスパイア"程度の全くの"別モノ"ながら、監督のジブリ最終作でそのタイトルからどうしても"どんな哲学"を秘めているのか?身構えるわけですよ。
としたら、以外にもジブリファン念願で待望の"ファンタジー大作"ときたんだから見るっきゃないわけなんですよ!
そして『千と千尋の神隠し』と比べれば、辛うじてわかりやすく、メッセージ性を受け取りやすく、かといってやはり宮崎駿監督らしく考えるな感じろの表面上だけライトに楽しむことはできつつも、"難解め"で"考察の余幅"もかなりある「哲学ファンタジー映画」とは成っています。

でも一つ言っておくのは、それでも支持を受けるのは『千と千尋の神隠し』だし、"思い出補正"としても千と千尋は無敵の効力を発揮するのでしょう。

でも今作で感じたのは、
"果たしてそのままでいいだろうか?"
と言う投げかけです。

いや「千と千尋」を否定するものでは全くないし、圧倒的なまでの"非現実的で屈折した世界観"の映像の魅力は凄まじいものです。
今作と「千と千尋」の違いは、ベース(主軸)は似ていようともどちらが「現実」に重き、軸足が向いてるかを考えれば、大分"メッセージ性"が変わってくると思うのです。
まあ"導入部"である現実パートが2時間超(135分)の上映時間の30分超、体感一時間近く(時間を測ってはいませんが)長めにとられてるのもこれは言えますね。
おかげで、"ファンタジー目的(主体)"の方の評価を大きく分けようですが・・・(笑)

それでも、"キャラクターへの愛着"の点では千と千尋より"大きく劣る"と言っても問題ないかも知れませんね。
それだけにあいも変わらず美麗で温もりがあり、"躍動感&生命の奔流"さえ感じさせる「ジブリ(パヤオ)」アニメーションに、頭がスパーキングしそうな歓びと故郷に帰ってきたかのような"ホムカミ感"さえアニメで感じられるのは"ほっこりの極み"で、もう"日本人のDNAに刷り込まれてんじゃね?"感を抱きつつも"万人受けではない"んですよね…

そしてベースは男女の違いはあれど「異世界アドベンチャー」と「家族を救う」という重要素が共通してるとなると、どうしようもなく比較は避けられないですが、どちらも"自己(アイデンティティ)の成長"が大きく関わってきます。
「千と千尋」は"内向的"、こちらは"未来へ向けた自己の確立"という意味では、よりわかりやすくより"他方へ向けて"で届く人に厳選してるかを考えれば、全く意味合いが違った作品で、宮崎駿監督自身にとっても"ブラッシュアップ"、いや「尖鋭化」させた気で送り出しているのではないでしょうか?

オープニングからの火事の動乱シーンで、いい感じに崩した作画で混迷を表現し、ゴッホやゴヤなど油絵&絵画じみた演出に目を引くし、アニメ映画での体のいい作画演出ではマスタピースと言えるくらいの"水表現"が必要不可欠でしたが、今作で思い出すのは『ハウルの動く城』の"火"表現。
空気感の"動と静"、表現の"火と水"、ただひたすらに日本アニメ映画界を牽引してきたマスター(スタジオ)の"円熟"の境地には、"安心感と寂しさ"の趣きもより強くなっているように感じます。

※以下、ストーリーのオブジェクトに触れたもの
考察を披露するつもりは全くなく、パンフ情報もなければインスパイア元も未読ながら、らしきヒントを並べると、なぜ擬人化させたような青サギ、ペリカン、インコの「鳥映画」なのか?
を考えると、この"死生観"もわかってくるかも知れませんね。ただのコンセプトかも知れませんがw そしてなぜキモ鳥調で青鷺おじさんが強烈なのか?(クセが強過ぎなん…じゃ!😉)
ストーリー進行上、身重の継母(叔母)と裏世界(地下、下世界)からの人間の子となる白玉ちゃん(名前忘れた)、鳥とくれば「コウノトリ」のイメージは避けられないはず。
そのシーンで行われるのは、本来ならばグロテスクか白いから現実的な生殖のサバイバルイメージが妄想として湧く可能性も無きにしもあらずですが…w
なぜペリカンで、コウノトリがいないのか?と訝しんだものの、「青鷺(おじさん)」自体がコウノトリ目…ではないもののフェニックス由来の縁起鳥のイメージが海外ではあるので、その辺の経緯があるかも知れません。序文の"共存"発言は別段深い意味はなく、インパクトが強すぎたための冗談ですw

そして問題の「石」や塔の出来た由来は「雷のようだ」とは言いますが、昭和20年前後の第二次世界大戦の末期の"戦時"設定によると、「原爆(核)」のイメージも避けられないかなと思うのです…
この事については、この物語の終盤に起きてしまったことに結びつけて、眞人(主人公)の言動が"災禍を呼び寄せた"なんて考察も中にはありそうな気がしますが、彼は自分の帰るとところ、"帰属する社会"を選び取った「決断」の行動と言えます。
ここは、翻弄されてなし崩し的に「アイデンティティ」を得た千尋と似たようで大きく違うように思います。
要は、"他者を想う事で「自己」の在り方を確立"したと言えるべき行動。

『2001年宇宙の旅』のモノリス、某聖なる山々なカルト映画、新海誠監督『すずめの戸締まり』と共通する"オブジェクト"や映像表現は、"S(少し)F(不思議)"から「SF」への観念的・哲学的動きを見せて、ジェームズ・ガンやフィル・ティペットもどこか"共有"した映画を撮って(創造して)いることに「巨匠の晩年」に想いを馳せる映画にもなるんじゃないでしょうか?