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君たちはどう生きるかのDJ薄着のネタバレレビュー・内容・結末

君たちはどう生きるか(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

初見、自分に向けられた作品では無いように思った。親しい人に向けられた手紙を間違って自分が読んでしまったような気まずさと、不謹慎な胸の高まり。なにを言ってるかは断片的にしか分からないけど、静かにうるさくて、強くて弱々しい突風のような映像が自分の前を通り過ぎていく。


この映画は火事から始まるけど、自分は野次馬だった(そもそも映画なんだから、眞人と一緒に火事の中へ飛び込むことなんて不可能なんだけど)。自分とは直接関係ないことに、浅はかな関心を持って物見高く集まり、面白半分に騒ぎ立てる。映画を見ることや語ることって本来野次馬みたいなものかもな(野次馬はもともと歳をとった馬、制御できない馬のことを指すんだけど、そう考えると宮﨑駿っぽくもある)。しかし今この作品は自分と直接関係ないことだったとしても、いつか自分と関係を結びたい映画だとも思った。
なのでまずは鑑賞して考えたことをツラツラ書き残しておこうと思う。なんとなくこの映画はそういう風に残すのがいいと思った。

メモを書きながら感じたのは、惑星同士が接近する感覚。届きそうで届かない。自分の鑑賞力が足りないせいもあると思う。でも、いくら言葉を尽くしても、直接核心へ触れることができない。このことを友人に話したら作中ベックリンの「死の島」が出てくること、その場所は死ななければ辿り着けないこと、そこにいってしまった人とはもう直接話せないこと、でもいつか自分も行く場所であることなどを話してくれた。自分が作品や死の島に対して隕石を落とすような干渉は出来なくても、作品を自分にとっての隕石として扱うような鑑賞は出来るはず。たぶん。


正直、見たとき、わからなくてつまらない作品だと思った。映画館で明かりがついたとき、立てなくなった前の2組が、絞り出すように「わか…らな…かった……」と呟いていたのも印象に残ってる。でもそのわからなさや、つまらなさがどのようなものかを誰かに説明しようとすると、もっと言葉に詰まる。それでもどうにか言葉にしようともがく。時間が経ってようやく言葉が少しずつ出てくる。そうやって出てきた言葉で、観客の口から、おもしろさが生まれたりする(死んだりもする)。口頭で「君たちはどう生きるか」と問われても同じような反応をするかもしれない。作品がそのように語らせてくる。広告や宣伝は、お金という権威による価値付けなんだなって思った。まだ価値の測れないものをどう評価するか。人が評価する過程で血の通う作品。どんな血を通わせられるかは、私たちがこれまで積み重ねてきた経験(細胞が入れ替わりながら死にながら生きてると考えると、遺志とも言えそう)と、これから積み上げる意志や意思によって決まる。評価するっていうと、そこで終わりって感じしちゃうけど、作品の意味はその人にとって生まれ変わり続けるものだから。

眞人や夏子、大叔父は、死にたさ、希死念慮を抱えたキャラクターに見えた。石で自傷した眞人の出血量は心配になるほど多くて、夏子の白装束は産室で使うものでありながら、山中へ向かうその姿は死装束を想像する。大叔父は現世への諦めから自分の妄想に閉じた(ヒミと若いキリコはどんな表情で塔に入ったんだろう)。
眞人が「夏子お母さん」と呼んだシーンが一番印象に残っていて、自分にはあそこで眞人が諦観したように感じられた。
「あきらめる」は自分の願いが叶わなくて思いを断ちきる、という意味で使われるけど、それは後悔や怨みが残る。だけど本来「諦める」の語源は「明らむ」であり、仏教で諦は「道理、真理」を意味する言葉。ものごとの真(眞)理を明らかにしたうえで、初めて納得して「諦める」ことができる(なんか由来おじさんみたいになってきた。ついでに調べたことをメモすると「眞」という漢字は死者の形が元になってるっていう説もあって、名前に使うのは避けられることが多いらしい。しかし古代中国では死をポジティブに捉えて、死=不変の存在=永遠=存在の根本と考え、真実という意味が与えられたんだってその眞人の存在の根本となるヒミは、死をポジティブに受け入れていたように見えた)。

あなたなんて大嫌いと言われた眞人は夏子が鏡のように映る自分に見えたのかもしれない。眞人は夏子に大嫌いと言えなかった。これまで言えなかった否定の言葉を言われた(言ってもらえた)眞人は、鏡写しのようにこれまで言えなかった肯定の言葉として、夏子のことをお母さんって呼べたのかもしれない。自分にとってあの時の眞人は、母と言わざるを得ない、この人と生きざるを得ない、納得して諦める、諦観しているように見えた。夏子お母さんという呼び方はいびつで、でもそのいびつさを抱えながら継母と連れ子として生きていくしかないって2人とも覚悟決まったように思えた。


君たちはどう生きるかという問いかけは、私はこう生きたという物語であり、私はこう死ぬの遺言であり、君たちはどう死ぬかの問いかけでもある。死にたい気持ちと、生きたい気持ちは両立するし、死にたくない気持ちと、生きたくない気持ちは両立する。
なぜ自分がこの映画と関係をつくりたいと思ったかって、自分もそんな気持ちを両立させながら生きているからだと思う。なんとなく長生きとかしたくない、死にて〜って気持ちがあって、でもなんとなく生きて〜って気持ちもあってここまで長く生きてきてしまったな〜と思う。でもそういうふうに「あきらめて」生きたり死んだりするのではなくて、「諦めて」生きたり死んだりしたいなってこれ書きながら思った。1,000円ちょっとと2時間座ってるだけでこんなこと思えて得したな。

眞人という子どもが生きることに向き合おうとする映画であり、80歳を超えた宮崎駿が死に向き合おうとする映画。まだまだ隕石のように引き寄せるには見足りない。「あきらめから、諦めへ」このキーワードを仮置きしながらまた劇場に足を運んだり、いつか元気に死ぬ日が来るまで何度も思い出したりしたい。青鷺、覚えてろよ。


久石譲の音楽、すっごく普通だったな。心に残る名曲とかじゃない、普通。普通ってのは悪い意味じゃなくて作品に忍んで、溶け込み、全く違和を感じさせなかったということ。全然覚えてないし、覚えさせる気すらなさそうだった(悔しいけど青鷺の言った通りに忘れてしまってる)。普通をあえてやるのって一番難しいと思う。記憶に残らない名曲、すごい。


"君"はどう生きるかじゃなくて、"君たち"はどう生きるかだから、自分に問われてる感じがしないのかな。問われているけど目線は合わない、全校集会の話を聞いてるみたい。全校集会の話者は私たちの方を向いて話してくれる。でもこの作品を1人の話者だとするならば、自分のことを振り返る背中から語りかけてくる感じする。
もし君はどう生きるかってタイトルだったら、ビビってオシッコ漏らしてたと思う。


本読んで、自分の思いがけない部分が引き出される時ってあるよな〜。お母さんが残してたのが「君たちはどう生きるか」でよかった。「疾風(かぜ)伝説 特攻の拓(ぶっこみのたく)」とかだったらどんなストーリーに分岐(ダンス)してたんだろう。
自分に子どもがもしできたら、何の作品を残すだろう。ジブリの作品は見せたいな。そう思われるのって、すごい作品だな。
大事な人から残された作品であれば何でも嬉しいかもしれない。作品にも絶対バフ(亡くなった母が自分に残してくれた本という特別さから来るステータスアップ)がかかりそう。自分が記憶している中で一番最初に見た映画は、父と母に抱っこされながら立ち見したトトロ。宮崎駿は今の自分をつくってくれた1人でもある。そんな人が残してくれた作品だからこそバフかかってるし、余すことなく受け取りたいという気持ちになる。
眞人は本の続きを読んだかな。コペルくんが活字で登場するとは思ってなくて思わず笑っちゃったな。


大叔父を継がなかったり、映画が突然切れるようにバサっと終わったのが、フィクションから目を覚まして現実を生きろってメッセージだとしたら、庵野秀明のシンエヴァを思い出す。シンエヴァの現実はキラキラしてたけど、君たち〜の現実はひどく退屈そうだった。


ヒミと夏子の実家は、あの隕石を使って財を築いたのかな。戦略結婚だったとしたら、父が妻を亡くしてすぐ妹と結婚して子を持ったことも少し納得できる(今ではありえないけど)。夏子は自分のことをどう思っていたんだろう。鳥籠のなかの鳥のような人生。


普段ジェンダーや性的趣向について話すのに慎重な人も、どうして宮﨑駿のことになると、ロリコンとかマザコンとか乱暴に言い切ってしまうんだろう。もしヒミが宮﨑監督の母を投影したものだったとしても、母の若い頃の姿を理想的に魅力的に描いたっていいじゃない。そして80歳過ぎても母に甘えたいなんてこと、なかなか言いづらいんじゃないかな。いくら年を取ったって、人は誰かに甘えていい。その誰かは今はもういない人かもしれない。冒頭で手紙の話をしたけど、それは今はもういない人に向けたラブレターだったのかもしれない。アニメーションででも、お母さんにまた会えてよかったねって思う。
宮﨑駿がアニメーションで救われたことと、だからこそ背負ってしまった業を想像しながら、おれはお風呂に入ってくるぜ。こう生きる!(熱湯のシャワーを浴びながら)




全然上手くまとまらないまま、ここまでダラダラ書いてしまった。このダラダラさがまさに自分の生き方を表しているようで恥ずい。