カラン

赤い天使 4K版のカランのレビュー・感想・評価

赤い天使 4K版(1966年製作の映画)
4.0
1940年頃、日中の戦争を経てアメリカとの開戦にまで至る少し前、中国の内部に侵攻した日本軍は中国の広大さに疲弊しつつあった。膨大な負傷者が輸送されてくる戦場の病院に、日本から看護師の一団が派遣された。その中の1人、西さくら(若尾文子)は戦場のあまりの悲惨さを、背負い込む。戦場で誰かは死ぬ。しかし、その死は自分が原因であってはならない。袖触り合うも他生の縁とでもいうのか看護師・西の自我はヒステリー的に肥大して、次々と「自分の責任」が膨張して、一兵卒に、上官に、自分の身体と人生を譲り渡し、「(両腕のない兵卒に)私の身体、好きにしていいのよ」、「(戦場のストレスで不眠の上官にモルヒネをやめて性器で)「西を愛して」。。。


☆『プライベート・ライアン』

若尾文子が後年のインタビューで、撮影後に作品を観れなかった、と告白している。戦場の恐ろしい描写の撮影が多かったからのようだ。本作における増村保造の描写は迫真のリアリティーを追求するものであり、傷口にウジがわき、足をノコギリで切断し、ライフルがけたたましく音を立てて光り、黒い土埃が舞い上がる。増村さんは先鋭的な描写の凄い監督だった、と彼女はまるで他人事のように語るのであった。

その際に「最近、『ライアンを探して』というのを観た」と彼女が言うと、インタビュアーは少し考えてから、『プライベート・ライアン』(1998)ですね、と答える。彼女は勘が非常に良いのではないか。まったく思いもよらない話だったが、彼女が直感的に想起したように、増村保造の『赤い天使』は、スピルバーグの『プライベート・ライアン』と確かに比較すべきなのだろう。


☆世界を救う

『赤い天使』は、戦場の苛烈さに対して《正常な》反応ではなく、自分を輪姦した一等兵が戦場で負傷すると、希少な血の輸血を軍医に依頼する。すると「その代わり夜自分の部屋に来るのが条件だ」と言われて、分かりました、と返す。その夜に実際に男の部屋を訪ねて、看護師の服を脱ぎ下着で飲み始めて、目が覚めると一糸纏わぬ裸になっているのだが、その軍医を、後に愛していると言い出す。それは両腕を失くした別の兵隊を慰安したのに投身自殺をしてしまった後のことである。この西という看護師は、戦場で男たちの欲望を見つけ出し、それを自身の身体の穴で充足させることに、《異常に》執着しているのである。しかしまた、いったい普通の精神状態で、足に開いた銃創を、暗号文書を取り出すために敵が切り裂いた腹の裂傷を、誰が直視しながら、もしその穴が塞がらないなら致し方ないと受け入れられるというのか?

この映画の看護師・西さくらは戦争がこの世界に開けた開口部を自らの身体の穴で代理表象し、それを埋めようとする女なのだ。世界の破滅を食い止めようと自身の身体を差し出そうとする女なのである。そういう女の哀しみを、まずは理解するべきである。その女が最終的に自分以外の全ての死に気付くラストは壮絶である。この映画は傷口や血や外科手術を、また、戦場の男たちのさまざまな性欲を、全編で示す。それは全てこの世界の負った裂傷であり、女は自身の身体の穴に男たちを引き受けることで、縫合しようとする。

しかし最終的には、縫合の失敗が女の眼前に展開される。この世界の裂け目が女に提示される。それが軍医の岡部中尉の死体である。女はモノクロームの画面の中、縫合されていない世界に呆然とするが、これこそが増村保造がこのいささか猟奇的な映画で示すリアリティーである。つまり、世界には裂け目がある。人は普段それに気付かない。しかし、戦争は兵士の傷口でそれを露骨に示してくる。


☆リアリティー

スピルバーグの『プライベート・ライアン』のかの有名な冒頭の20分間よりも長く『赤い天使』は戦場のゴアを描き続ける。さらには、そのゴアの中で文字通りの献身で死なずに生き延びた看護婦に、献身の失敗を提示する本作のリアリティーは『プライベート・ライアン』を超えている。なぜなら『プライベート・ライアン』では献身するのはミラー大尉他であり、その献身が成功するからである。『赤い天使』の描く戦争の苛烈さと残酷さのリアリティーが目減りしないのは、戦場の献身を成功させないからである。

しかしである。『赤い天使』こと、看護婦の西さくらの描き方はリアリティーがあると言えるのだろうか?男たちの欲望を掘り起こし、その欲望を自らの身体に挿入させることで、世界に開いた亀裂を縫合しようとする女の描写はどのような意味でリアルなのか?

この女が男の欲望をその身の穴に埋葬しようと身体が接近する時、顔は必ず映らない。若尾文子の顔で接近して、カットが入り、顔のない肢体が映り、またカットが入り、若尾文子の顔が戻ってくる。替え玉の身体と交換するための撮影とモンタージュのように見える。いったいこうしたショットに関して、どのような意味でリアリティーというものを考えるべきなのか。というのは、若尾文子が西さくらを演じているというのは錯覚で、別の裸体モデルが若尾文子演じる西さくらを演じているということに、人は欲情するのか?もしここで欲情しないのなら、女に世界の穴を垣間見せるこの映画がもたらすリアリティーはやはり虚偽とはならないのか?なぜなら、この映画のリアリティーは女が男の身体を引き受けようとして、引き受けられない限りで示される絶望的なリアリティーであったはずだから。

若尾文子の、撮影後にこの映画を観れなかったという告白は、この映画が残酷なリアリティーを追求するものであったから。この話はこのレビューのはじめの方で紹介した。しかし、本当だろうか?『ライアンを探して』は観れるのに?どうも腑に落ちない。増村保造の徹底したリアリティーとはいったい何のことなのか?思考する必要がある。



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