『トレンケ・ラウケン』という言葉は円形の湖のことらしく、中央にはラウラという強烈な母性があり、ある種2人の男どもはその円環をくるくる回っているに過ぎないわけだが、そこに手紙の挿話がグッと差し込まれる辺りで物語にどっぷり浸かる。いわば私信のような秘め事のスペシャルな熱にラファエルは魅了される。その時点でラファエルは彼女を何かに規定し、定義づけるのだが、女の母性は湖のように無限に拡がり、湖面の底のように実態が見えない。確かに難解な映画で、ハッとするような瞬間は4時間強の映像世界の中ではほとんど訪れない。然し乍らあえて『羅生門』形式で繰り広げられる一部と二部とのびっくりするような大きな齟齬は改めて男性・女性という性差に我々をいざなう。山中監督の言葉を例に出すまでもなく、後半の緊張感に欠けるラジオ局でのラウラの1人語りは、回想形式という映画では禁忌のスタイルに挑むのだが、ラファエルのあっけに取られたような表情が終始忘れられない。決して語られることのないラウラの自分語りは、彼女の行動を裏付けるものでもない。
前半のアントニオーニばりのイタリア旅行のシークエンスは、ラウラ・シタレラ監督が属するエル・パンペロ・シネが実際にイタリアの映画祭に行った際に撮っていたマテリアルを無限シークエンスに纏めたもので、結果オーライだと言うから凄まじい。Part1の後半から突如アルゼンチン音楽が密林のように立ち上がり、Part2へと連鎖していく。そしてPart2の後半30分間のラウラの地獄巡りの旅の映像はほとんど奇跡的に映る。この年末押し迫った季節に下高井戸シネマにこれだけの人々が集まり、熱狂すると言う事実に2025年の映画界の希望を改めて感じた。