特筆すべき映像美。長回しや移動撮影が端正だし、画面の切り取り方が巧い。しかし、ショットを割ること、つまり世界を四角く切り取ることは、避け難く「捨象」と「排除」の意味合いを帯びる。
終盤、ひとりの登場人物が、徹底的に画面から排除され続ける。凡庸な恋愛模様を描いたドラマのなかで、カメラワークはここまで残酷になれるのか、と心底驚いていた。あいつの心が押し潰されるのは、二人の言語が理解できないからではない。自分がカメラに写らないから、だ。この映画に彼の居場所がないことを、映画自体がはっきりと告げている。
しかしその捨象によって、この映画が「2人の映画」でなく「彼の映画」になっているのは面白い。『ヒズ・ガール・フライデー』なんかもそうだが、昔から恋愛戦争に負けるのはいつも「画面に映っている時間が短い方」だ。何故なら、それが観客の望むことだから。
だけどこの映画では、画面に映らないあいつのことを、どうにも意識せざるを得ない。そうせざるを得ないように映画が組み立てられてると思うし。
技量はまるで違うが、この映画もやってることは『花束みたいな恋をした』と変わらないと思う。映像世界から捨象されるあいつは、絹ちゃんが行かなかった天竺鼠のライブだ。批評されないカウリスマキだ。麦くんが見ることのなかった、ゼルダの伝説のラスボスだ。見つめ合う2人のあいだで閉じた世界なんて、結局どこまで行っても空虚なんだよ。
おれはどっちかというと女の方に腹を立てながら観ていたが、フォロワーの女性は男の方に腹を立てながら観ていたそうなので、どっちが悪いとかじゃなく普通に2人ともカスなんだと思う。曖昧な態度の男も、大事なことを二元論で片付けようとする女も。
愛しあう2人に必要なことは、互いの最大公約数を見つけることじゃなく、共同経験を重ねて最小公倍数を作ることなんだと思う。おれたちは、もっとこう、新しくならないと。カメラに写らない、外側の世界を見ないといけない。