よねっきー

オッペンハイマーのよねっきーのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
4.4
ラスト含め象徴的なショットが数々ある通り、原爆の父が原爆から「目を逸らす」話だ。

劇映画はそもそも嘘っぱちであり、描けないものがあるということを、たぶんノーランは分かっている。映画はショットを切り返すが、現実はそうではない。オッペンハイマーが日本に原爆が落ちたことを知るとき、日本はオッペンハイマーを見つめ返すことができない。そこに切り返しショットが有り得ないのは、戦争において俯瞰の視点が存在しないからだ。

しかしオッペンハイマーが、日本に落ちた原爆の被害から徹底的に目を逸らす構成が、この映画の評価を難しくさせる。
確かにオッペンハイマーは、来日しても広島や長崎に行くことはなかったし、原爆が起こした被害から目を逸らしているように見える。けれど、この物語は必ずしもオッペンハイマーの一人称視点で語られるわけではない。製作母体はアメリカかもしれないけど、戦争を経験していないのだから、日本の視点と同じくらいオッペンハイマーの視点だって経験していないのだ。この映画は初めから、本当のことなんて描けないのだ。だとしたら、この映画自体も日本から目を背けて良かったのだろうか。

日本での具体的な被害がスライドで投影されるシーン。スライドが変わるたびに小さく、悲鳴が上がる。しかしオッペンハイマーはそのスライドを見ない。そして同様に、カメラもそのスライドを映さない。ここで、カメラだけは少なくとも、スライドを画角内に収めて欲しかったというのが、日本人である自分からの小さな文句だ。オッペンハイマーは直視できなかったかもしれないけど、今の僕らには、できるじゃないか。

日本で育ってきて、教育を受けてきて、8月6日に黙祷したりして生きてきた自分でさえ、本当の原爆も本当の戦争も分かっちゃいないのだ。それでアメリカ人がこの映画を観て分かった気になってるのだとしたら、腹立たしい。この映画における原爆も水爆も、結局多くのアメリカ人が考えるのと同じ「めちゃくちゃデカい爆弾」にすぎないじゃないか。公開は遅れたけど、この映画をいちばん理解できるのは我々日本人じゃないか。日本で観てこそ価値があるじゃないか。

ノーランがいつもとは違う次元にたどり着けていただけに、反対に「できなかったこと」に目がつき、走り書きしてしまった。映画としては十分楽しめたのだ。会話劇と政治劇にコンセプチュアルなスペクタクルがミックスされた構成はスリリングで、素晴らしいの一言。同時期に公開中の『DUNE PART2』なんかよりずっと、IMAXで鑑賞する価値があると思う。これこそ贅沢な映画体験ってやつだ。
倫理的に映画をつくるのは難しいな、とつくづく思わされる。自分だったらマジで無理な作業。だけど、文句を言っちゃいけないわけじゃないでしょう。
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