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マグダレーナ・ヴィラガのnetfilmsのレビュー・感想・評価

マグダレーナ・ヴィラガ(1986年製作の映画)
3.7
 私は最初に『ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワー』というニナ・メンケスによるフェミニズム講義を一通り目にしたところで、その実践編となるニナ・メンケス監督の作品2本を観た。今作はニナ・メンケス監督が映画大学時代に撮った習作だが、彼女の中にシャンタル・アケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』という大きな規範があったことは想像に難くない。私自身はシャンタル・アケルマンの名前だけは2000年代初頭から活字レベルでは目にしていたが、実際に映画を目撃したのは同じヒューマントラストシネマ渋谷さんの2年前の世界線であるシャンタル・アケルマン映画祭で、文字通り震えるような衝撃を受けたのだが、同じような衝撃をニナ・メンケス監督は80年代の思春期に受けていたのだと推察する。時間にして40年が経過した現在の世界線では、もはや宮下パークの喧騒を掻い潜り、若者たちがシャンタル・アケルマンの映画祭に一昨年も去年も熱狂したのだが、天国にいるシャンタル・アケルマンにはこの喧騒は届かない。

 今作は『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』を観て、フェミニストとしての在り方を決めてしまったニナ・メンケス監督による態度表明的な彼女の一丁目一番地である。様々な監督によってハリウッド映画ひいてはアメリカ映画が形作られたが、そこに自身のアイデンティティを投影出来るような作品がなかなか見つけられず、彼女は非常に苦しんだに違いない。然しながら『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』という映画の破壊力と、その後のシャンタル・アケルマンの苦しみの記録に彼女は天啓を得て、シャンタル・アケルマンの後継としての視座を持った。然しながらシャンタル・アケルマン自体はフェミニストとしての矜持を持ちながら、同時にバイセクシュアルであり双極性障害をも患っていた。つまり彼女の視座の中には複数の微妙な主題系が入り込み、微妙に混線していた。然しながら彼女を唯一の規範とし、習作を撮った時点のニナ・メンケスの映像による試みは、レーガニズムに湧くアッパーなアメリカ映画の中では真に異色で、正当に評価されたとは言い難い。ニナ・メンケスの妹であるティンカ・メンケスが男たちに抱かれる際に声を発せず、ただただ虚空を見つめる様子には女性たちの孤独と深い焦燥感が浮かび上がる。正に主体と客体、受動と能動という関係性で示される性的な違和を形にしたマスターピースは、アメリカにおける『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』以降の闘争を映し出す。
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