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白鍵と黒鍵の間にのnetfilmsのレビュー・感想・評価

白鍵と黒鍵の間に(2023年製作の映画)
3.7
 一見して何だこれの感覚はよく新作を見ている私でもそうそうお目にかかることはない。しかし南博の原作小説の映画化である冨永昌敬の作劇は明らかにおかしい。例えるならクリストファー・ノーランとチャーリー・カウフマンの新作を同時に観た感覚に近い。昭和63年暮れという時刻と「スロウリー」と「リージェント」という2つの銀座のナイトクラブというある限定された場所を扱っている。何やら界隈は冒頭から嫌に騒がしい。客よりもスタッフの方の出入りがやけに激しい印象だ。ジャズピアニスト志望の博(池松壮亮)は、ふらりと現れた謎の男(森田剛)のリクエストで『ゴッドファーザー 愛のテーマ』を演奏する。しかしその曲をリクエストしていいのは銀座界隈を牛耳る熊野会長(松尾貴史)だけといういわゆる地雷を踏んでしまう。南博のキャラクターはまるでドッペルゲンガーのように分裂する。さながら夢を追う男と夢を諦めた男との対比は片方は南で、もう片方は博という謎の分裂状態で、ハシゴするキャバレーで入れ子構造のように現れては消えてを繰り返す。そもそもこの架空の銀座は一体何なのだろうか?バブル前夜の景気と男たちの欲望に支えられた夢のような街で南も博も光と影の間で翻弄される。

 まぁ正直言って初見ではどちらが南でどちらが博なのかがサングラスの有無以外はさっぱりわからなかった。穿った見方をすれば、冨永昌敬もその辺りの整合性を考慮に入れていない。主人公の一人称視点で描かれる物語なら似たような作品を挙げられるが、今作は微妙に一人称の物語ではない。登場人物たちはまるでバトン・リレーのように幾つもの視点をコロコロと変えていく。極めてメタ的な二重構造の物語には一応、語り部のような千香子(仲里依紗)が登場するが彼女自身は「スロウリー」と「リージェント」の間に科を作る。三木(高橋和也)がいるのがどちらのキャバレーで曽根(川瀬陽太)がいるのがどちらかすらも三木が「スロウリー」だったね程度のぼんやりとした認識しか持てず、現実の男と男のアルター・エゴのような入れ子構造の中に、彼を執拗に追いかける謎の男(森田剛)が悪夢のように何度も迫り来る。森田剛自身も単なるヤバイ男ではなく時の番人のように時と時、場所と場所とを接着剤のように繋ぎ合わせる。南と博が蝶番なら、実は森田剛自身もドッペルゲンガーのような二重人格キャラなのではないか?2人が銀座の路地裏でいきなり二人三脚を始める場面こそがメタ演出の象徴で、クライマックスは時空の間に追いやられた両名がメビウスの輪に幽閉される。93分の作劇の中に色々と勘所は押さえているものの、これを一度で分かれと言うのは相当に無理がある。もはやアブノーマルな物語にしか刺激のなくなった冨永昌敬による『マルコヴィッチの穴』のような見事な枠物語。
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