戦国版アウトレイジかと思いきや戦国版おっさんずラブ。それもかなり生々しい。
いや、それっぽいことを書いてお茶を濁すのはやめよう。
『首』は、確かに脂ぎったおっさんたちの愛欲を描くのだけれども、そこに『おっさんずラブ』のような能天気な“純愛”はない。
ギラギラした情欲と、嫉妬と、ハラスメントに満ちた貪り喰らうような浅ましさがあって、それはあの大島渚の『御法度』の、少し先をいっている。
ところで、『御法度』といえば、あの映画でたけしが演じた土方歳三は、烏合の衆たる新選組を「歯向かうものを斬るための集団」と定義し、決して惻隠の情を持つ「武士の集まり」とは見ない。
士道などよりも、人斬りの術に長けたつわものたちと、刀の重みと切れ味だけを信じる男だった(そういう意味で、大島は司馬史観を超えていた)。
『首』は、そんな『御法度』のスピリットを受け継いで、士道に足蹴を喰らわす。
大事な御首級は無様に転げ落ちて地を噛む。
そのさまが何より痛快で、滑稽で、意地の悪い笑みがこぼれてしまう映画である。
サムライが何だってんだよバカヤロウ!って感じなのだ。
この国は、何かといえば楠木正成だの大和魂だのサムライジャパンだのと、せいぜい当時の人口の1割にも満たなかった武士階級が奉った士道というお題目を、偉大な美しい国の国民性ででもあるかのように盲目的にありがたがって、そのせいでおめでたくも、豚にも劣るクソ政治家などに煽られてバンザイ突撃で死んだりする。
(みんな、次の戦争の時は誰より先に、高級スーツ着てふんぞり返って裏金で肥え太ったあいつらを前線に送り出そうな)
古来、日本は落武者狩りを副業とする農耕民が大多数を占めた国である。
たとえば『首』でいえば、映画の終盤に竹槍で武装して明智光秀を追い回す衆こそが我々の本来の姿で、その成り上がった姿が映画の羽柴秀吉なのだ。
我も我もとそのへんにある武器をとり、落ち目の人間を徹底的に追い詰め、寄ってたかって嬲り殺すのは、日本人のお家芸である。
SNSにかじりつき、奴隷根性まるだしで政府与党だかうさんくさいインフルエンサーだかに盲従し、同調圧力のもとで弱者や異端者を冷笑しつつ、付和雷同して誹謗中傷に励むバカどもを見てみろよ。アレのどこが美しい国の誇り高きサムライの子孫なんだい。
そんな我々の直系の先祖にして、初めて武士階級にもぐりこみ、猿よエテ公よとさんざんな侮辱も肥やしにして戦国を制し、やがては頂点に立つであろう男が最後、声高らかに宣言するかのように喚くのである。
「明智が死んだことがわかれば、俺は首なんかどうでもいいんだ!」
侍たちが何よりも尊び、それさえあれば世界を手中にできるかのように求めて足掻き、首実検の際は念入りに化粧を施し、湖に落ちれば溺れる危険もかえりみずに救い出そうとするその首を、勢いよく足蹴にするラストカットの爽快感なのだ。
しかも、その侍にしてからが、そもそも立派な人物などではこれなく、西島秀俊の理知的な面構えで我々を騙しつつ実は誰よりも残忍かもしれない明智光秀(夜な夜な信長や蘭丸に見立てた配下の侍をむざんに殺してはウサを晴らしているというヤバさだ)に、女々しく嫉妬に狂うばかりの荒木村重。度胸なき滝川一益や丹羽長秀は、秀吉がぶちまけた金銀財宝に目がくらむ。
その親玉たる織田信長の末路も見事だ。
思えば、弥助もつらかったろう。
「黒人奴隷を侍にしてやった」というのは、少なくともこの映画の弥助にとっては余計なお世話で、屈辱の日々に憤懣やる方なかったに違いない。
「異質なものを受け入れてやる懐の深さ」と差別意識は表裏一体で、その矛盾のド真ん中でいたぶられてきた弥助の薙刀の一閃は、この映画で首を飛ばすどのシーンよりも胸のすくものだった。
百姓と奴隷とが、怒りをもって首を飛ばし、士道を足蹴にする反逆の映画だ。
ついでにWEB辞書で“outrage”を調べてみると、「激怒」「暴虐」「侮辱」「理不尽で残忍な行為」……。
となれば、『首』はやはり戦国版アウトレイジではないか。
というわけでたいへん面白くはあったのだけれども、撮影がいつもの柳島さんじゃないせいか、映画のルックは何だか僕らの好きな北野映画じゃないような感じだったし、編集もやや間延びしてカドが取れすぎのような感じもあった。
あとは、やはりたけしの暴力描写は突発的に耳をつんざく銃声なしには成立しないのかもしれん。
刀だと抜いて構えるところでこっちも身構えてしまう分、威力がそがれる。
棒立ちの人物がいきなり腕を伸ばして取り返しのつかない瞬間を迎える、あの衝撃がないのが残念だった。
てなわけで、令和の美しい国を舞台に銃声が鳴り響く『首』を夢想しつつ、退散いたしまする。