667djp

落下の解剖学の667djpのネタバレレビュー・内容・結末

落下の解剖学(2023年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

法廷劇の皮を被ったフィクションを巡る考察劇。

検察側の進め方はどう観ても強引で決定的な証拠や根拠が弱いように見える、ように出来ていて、それに対して映画の観客が苛立つように作られている。
つまりこの裁判で無実を勝ち取ることそれ自体は登場人物たちにとって実は決して難しいものではなく、つまり本質的には観客にとっても重要ではない。

目を惹くのは夫の落下に起因して炙り出される数々の落下だ。結婚の落下。親子の落下。信用の落下。人権の落下。
それらを解剖することなど出来はしない。
何故なら現実はそれらを解剖し切れないからだ。なのに解剖しようと試みる。結果それは時に暴力的な形となって現れてしまう。この映画における暴力は裁判だ。

この映画はそれに対抗し得るものがフィクションだという宣言のようにも受け取れる。白と黒に分離しようとする現実の力場に淡いを見出そうとする意志を、この映画そのものが表現しようとする。

これは個人的に最近よく考えることなのだが、ドキュメンタリーとフィクションそれぞれの観客との関係性が変わりつつあると感じる。

SNSや生成AIによって多くの人がその虚構性に気付きつつあるドキュメンタリージャンルにおいて、今求められるのはアクチュアルさだ。
主観的な真実ではなく、まごう事なき事実がよりクリアに描かれているかどうかが問われている。90年代のようにドキュメンタリーは虚構だ、と開き直れない時代なのだ。(とはいえどこまでいってもその虚構性から逃れることなど出来ないのだが…)

同時にフィクションにおいても、もはや現実を無視することが困難になった。より現実に対し(政治的に)正しくあらねばならないという作り手への要請は日増しに強くなる。
それは確かに正しく、アップデートと呼べるものかもしれないが、同時に多くの人々は手軽な正しさや信じたい正義に飛びつきやすく、一度手に入れたらそれを簡単には手放せなくなる。その正解に沿って作品作りをする傾向が現在のハリウッドの全体方針だ。

「しかし」と本作は待ったをかける。そんな状況すらも疑う胆力が、曖昧さを改めて許容する力が、フィクションには必要なのではないか?
そんなエクスキューズこそが本作の存在意義であり、複雑さを複雑なままどう許容するかへの挑戦であったかのように自分には思えた。
667djp

667djp