ささい

落下の解剖学のささいのレビュー・感想・評価

落下の解剖学(2023年製作の映画)
3.5
私たちが裁判について考える契機を与えられた気がした。
裁判という仕組みは、有罪か無罪かという二項対立的な制度であるし、また、人類史の中に裁判という仕組みが誕生して何千何百という間、その制度が極端に変質しなかったのは、その二項対立的な制度の合理性故だろう。しかし、あくまでこの映画が、所謂全体のうちの一部分ではあるものの、原告被告の双方、または社会において、不合理性や、また、人間的な、魂の部分の軽視が、どこかまかり通っている部分あることに疑いの余地は無い。もちろん、裁判という制度が絶対不可欠であることは言うまでもないし、全体的な仕組みそれ自体に対して、大幅な変革を執り行うべきだと言う意見もないが、しかし、我々の生きる現代という時代が、近代まで続いた二項対立的な絶対的価値観を否定し、ある種の相対性を追求し始めていることを鑑みれば、裁判もどこか変わらなければいけないところもあるのではないだろうか。真偽を追い求めるあまり、どこか元の仕組みから形骸化し始めてきたのではないだろうか。
時代が急速に移り変わり、科学技術の発展めざましい現代において、この先物理的証拠が捏造ないし隠蔽されうる可能性を考えることは自然なことである。科学技術を否定する気はさらさらないが、しかし、いま1度、頭を柔軟にして裁判について考え始める必要かあるだろう。


人間の人生は不条理な側面を含んでいる。人が個として生き、個の集団としての社会が成立している限り、その意味で、夫婦の互いのすれ違いは起きてしまう。個として生きる限り、真偽は主観に委ねられ、唯一の答えが出ぬところに、人生と裁判との差が現れてしまう。
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