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落下の解剖学のMrSeepのレビュー・感想・評価

落下の解剖学(2023年製作の映画)
4.5
“Anatomie d'une chute” (落下の解剖学)
解剖学とは、広い意味で生物体の正常な形態と構造とを研究する分野を指す。また、ヒトのからだ(身体)のつくりや形について学ぶ学問のことー。

さすがアカデミー脚本賞の作品。納得できるうるだけの満悦感だ。何と言ってもテーマとストーリーを構成する角度がおもしろ過ぎる。
表情や雰囲気、曖昧な関係性が醸し出す奇妙さと緊張感。
何かずっと変な感じがするけど、いや、普通か?と思ってしまう些細な違和感が、観ている間絶えずはびこっていた。それがこの作品のスパイスであって、内容の秀逸さを際立てている。
教養としての映画100、なんて本があったら間違いなく載ると思う。

個人的には完全に、刑事裁判やそれに関わる人の判断基準を風刺している映画だと思える。
これは何のための裁判なんだ?と考えていたら、ヴィンセントの発言で気づいた。そうか、真実と事実は全く異なる概念であるのかと。裁判に必要なのはあくまで証拠と供述による「事実らしさ」であって、個人における真実などどうでも良い。民主主義はそういうものだ。
ならば、この映画は民主主義までもを風刺しているのかもしれない。それなら本当に凄い作品だ。

この映画の“mort suspecte”(不審死)には、物的証拠が少なく、多くを証言を頼りに判決を導いている。つまり人の記憶の殆どで「事実らしさ」が構成されている。
人の記憶なんてものはひどく曖昧なのに。
ではなにを基準に「事実らしさ」を判断しているのだろうか。ひどく曖昧な見方で何が裁けるのか。これが人が人を裁くということの限界なのだろう。だけど民衆はそんな見方をすることができない。
ならばこの映画は、そんなマスメディアすらも風刺しているのかもしれない。とても複雑な入れ子構造のメタ認知だ。
(レビューを書いているうちにどんどん星が増えていくなぁ)

「落下の解剖学」の際立った素晴らしさは、作品としても事実だけを見せることを徹底しているように思えることだ。親子の関係性や事件の真相、またラストすら、もやもやして何かハッキリしない。だがこれは客観的に見た事実であることは確かだ。
それは刑事裁判も、自殺か事故か、はたまた他殺か、という真実を求めず事実を追求する一貫した姿勢が魅力的だ。

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追加で、蛇足ながら考察してみよう。
まず、anatomyとは、(ana) 相互にあるいは下から上に (tomia) 切るという意味である。
解剖の歴史は古く、約5500年前に古代エジプトで記述されたという記録が残っている。その後紀元前3世紀には、アレクサンドリアによる人体解剖が行われたという。
その後、近代の解剖学の基礎となったのはルネサンス期(16世紀)、アンドレアス・ヴェサリウスが著した“De humani corporis fabrica”(ファブリカ:人体の構造)によるものである。
そこから「人体解剖学」や「解体新書」など様々な体系化と分類化が行われ現代に至る。今ではれっきとした、閉ざされた医学の中で一般概念となっている。

今では、解剖学は様々な分岐を起こし、技術の発展によりミクロレベルで人体構造を観測可能になっているが、古の解剖学は「肉眼解剖学」と呼ばれる解剖手法が一般的であった。つまり、直接眼でみて観察することが解剖学の基盤とも言えるだろう。
眼でみて判断するにはどうすればいいか。まずは「区別」しなくてはいけない。できるだけ詳細に区別し、一つ一つに対して調査を行う。そして小さな調査結果を組み合わせて全体を判断し、事実を見極めていく。
これが解剖学の本質ではないだろうか?
ならば解剖学は、人体だけでなく人間の全てに対して有効な手法なのではないだろうか?

この映画は落下という事柄を解剖していき、事実を明らかとする。「落下」を解剖する。それと共に、人間の「内」なる部分まで範囲を広げ解剖している。
そういう見方をすると、親子や夫婦、友人との関係性までをも解剖し、事実を明らかにする姿勢があるような気がしてくる。落下を火種として、人の様々な事実を解剖していく、それが「落下の解剖学」という意味だったのかもしれない。
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