Habby中野

関心領域のHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

関心領域(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

視覚と聴覚、それに意識の方向と範囲について、それを追究するのに映画(鑑賞)は最もふさわしいものだと分かった。ゴダールが『イメージの本』を始め(終わり?)として探究したフィルムの解体と発散、それをこの映画は中に閉じ込めて、内部で燃焼させる─言うまでもなく、アウシュビッツの換喩として。映画の構造と内容、そしてスクリーンのこちら側にある世界にまでその形容を持ち出して相似を見出す、辛辣な造形。建築物のような映画だ。
われわれは映画を観に行き、着席し始まりを待つ。予告が終わり室内は完全に暗転する。しかし、映像は一向に流れない。始まりの予感のようなノイズ音が延々と流れ、”映像の不在”に不安を覚えていく。そしてそれから解き放たれ、スクリーンに明かりが灯ると同時に得られる安心感は、すぐさま不安へと逆行する。答えがない。あの長く続いた闇と、響き続けたノイズ、そしてそれが明けることに明確な形がない。でもおそらく、この不安は映画に対するものではない。自身の知覚と、欲望の乖離への戸惑いだ。スクリーンに映像がないことを不安に思い、それが映ることを待ち望む。これはわれわれが明らかに視覚に重きを置いており、聞こえているものよりも見えていない、見えるはずのものへ関心を持っていることの象徴に他ならない。翻ってこの映画は、視覚の関心/無関心に対して聴覚的な”無視できなさ”を置いている。その始まりの合図は、かくも手厳しいものだった。
しかしながら、”関心”の視覚的装置は明かり(あるいは光)という分かりやすい形で機能している。登場人物の紹介と関係性、舞台である家の構造を流れるように端的に説明する美しきシーン─妻がそれぞれ別の部屋にいる各女中の名前を呼びつけて仕事をあてる、その広がりと明るさ(といってもほとんどは自然光で、屋外から照らされて陰にばかりなっているが)と対照的となる、就寝前にルドルフが各部屋の施錠をし、一つずつ消灯していくシーン。「灯りを消す」ことはそのまま「関心をなくす」ことを表している。視覚をそのまま関心の装置としているこの映画において、見えない闇は、不在の証だから。照らされたものだけが見え、見えるものにだけ関心を置く。その事実はわれわれが一番知っている。
人間の恐ろしき所業が音として後ろで流れ、前景の生活/後景の惨劇の構図が映画の形となる一方で、無関心の闇は、物語の中にいる人々をも引き摺り込もうとする。夜中、暗い屋内で発見される娘や息子。夢遊病者のようにも見える彼女らは、暖かい明かりのついた部屋に連れ戻される。彼女らがそこにいた理由は不明だが、闇に呑まれたかのようなその姿は、この映画においては特別に不穏である。さらには、子守唄ごとく読み聞かせられる物語に被さるのは、暗視カメラで撮られた少女の姿。強制労働者のために果物を仕込むその行為は、地獄のような場所にいる者たちへの慈しみによるものだろうか。ただ、その姿は”本来見えないもの”として、しかしそれをまるで特別に見せてもらっているかのような視覚状況で捉えられる。彼女の行為や存在は、彼女たちの側(彼女たちの家の中)を除いて、容易く見ることはできない。その存在は、無関心の闇の中にかろうじて浮かぶ。あるいは暗がりの中塞ぎ込み酒を浴びる女も、自らを照らす明かりの中に眠る女も、赤ん坊の鳴き声に見向きもしない。彼女たちも、陰に沈んでいく。
(これもゴダールを想起させる)突如挿入される─厳密には庭の花々の静謐な(しかしおかしなリズムでつながれた)映像からディゾルブされる─カラーマットとノイズ、そしてそれは瞬く間に終わる。われわれの視覚と聴覚を切り裂き、欲望を掻き立てるそれは、冒頭と同じ力を持つ究極の光だ。ここにきてふたたび想起されたその指向性は、しかしその後力を失う。
主人公ルドルフが単身異動した後、物語は完全に停止し、あるいはそれが動く場面はことごとく映されない(そもそもこの映画に”動く”場面はほとんど映らないのだけれど)。そして冒頭以来続いていた視覚と聴覚の前後景の乖離もなくなり、映画には”見るところも聞くところも”なくなる。この終盤の停滞、この無意味さ、”関心のなさ”は、アウシュビッツ横の庭で行われる子どもたちによる「閉じ込め」の残酷な模倣を挟み、あまりに静かで、あまりに劇的なラストシーンへとつながる。
少しずつ暗くなっていく階段を降り、嘔吐するルドルフ。立ち直り、降り、また嘔吐する。ふと目線をどこかへ向ける。その先には夜空に煌めく満月─ではなく、現代の収容所跡の扉から差し込む外光、そして扉は開かれスタッフは施設の掃除を始める。そこにあった事実へ関心を向けるための施設、その清掃シーンはそこに閉じ込められた存在がいまなおそこに張り付けられていることを示すとともに、関心の裏には無関心が、またその逆もあることを表している。ウィンドウの中の遺物。反響する作業音。蘇る、視覚と聴覚の乖離。そしてそこから目を逸らし、ルドルフは真っ暗闇の中へゆっくりと、階段を下っていく。明かりに照らされたものは見え、闇は見えない。見えるものだけを見、見えないものはないものとする。聞こえているものは何だろうか。この映画の内部で起きたことは、フィルムの解体ではない。世界には、そして時間や空間の中には、照らされずとも存在するもの、聞こえなくとも鳴っている音がある。この映画はわれわれの知覚を解体し、時間も場所も何者の存在にも区切りのない、世界へと発散させた。前景と後景を、加害と被害を、驕りと苦しみを隔てた壁は取り払われなかったが、それをなぞるスクリーンの壁はもはや取り除かれた。エンドロールの後、一瞬の闇、そして照らされた世界にいまもいる。
残念なのは、これは視覚や聴覚に障害のある人には伝わり切らないだろうということだ。福祉的な意味ではなく、結局はまだ映画は視覚と聴覚に縛られたままであるということに、どうしようもなさの大きな欠片がある。せめて、これを見た自分が、闇に呑まれないようにしたいととりあえず思う。
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