Foufou

哀れなるものたちのFoufouのレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
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原作はアラスター・グレイの同名小説。図書館で借りようとしたら、予約順位14番でした。

以下、ネタバレかもしれません。



こういう映画作家は、原作との比較においてこそ、作家性が炙り出されると私なんかは睨むわけです。「クンニをされる」とか「奇怪な踊りを踊る」とか「幽閉される」とか、これまでのランティモス節は……さて、どんなものでしょう。

ヨルゴス・ランティモスのこれまでの作品の集大成みたいなことをおっしゃっているレビュアーさんがいらっしゃいましたけど、たしかにそんな佇まいはある。「ガッチャンコの世界」といってもいいし、「キメラの世界」といってもいいのだけれど、この監督の世界観における虚実の描き方の面白さとは、フランケンシュタイン的な統合にあるのであって、だからグロテスクだし、一周回って美しいとひとまずはいえるだろう。

建築、空間演出、内装、衣装……そうしたものの豪奢ぶりを前作『女王陛下のお気に入り』から引き継いで、魚眼レンズを用いたり、アップからの引きを多用したりと、「ヨルゴスのハリウッド時代」とでも呼びたいような、壮年期における新たな段階に差し掛かっているのは間違いないでしょう。撮り方がいっそう饒舌になっている。

前作がバロックだったとすれば、本作はゴシックでしょうか。どちらも私の大好物です。のっけから手放しで喜んでいたところがある。ところがロンドン時代の幕切れで、ちょっと食い足りなさを感じてしまった。スカッとしないんですね。いいたかないけど、冗長…… おや? これはもしや、原作の足枷なのか?

原作があろうとなかろうと、脚本が監督本人であろうとなかろうと、作品を総体として鑑賞すればいいのですが、そうするとなんだろう、この監督ならではと私が勝手に思っている徹底ぶりが、要所要所で欠けていると感じてしまった。リスボンの真昼のダンスシーンなんか、その典型。カップルがベラを外に連れ出して、そこから始まる冒険だって十分に考えられたはず。

『愛のコリーダ』的な食傷はございましたから、その点は徹底されていたといえばそうなんですけど、エマ・ストーンがね、ギネスに載ってもおかしくないほどの体当たりぶりを本作で示すわけですよ。お股を開くなんてのは朝飯前で、腹のなかも脳みそもぜんぶ晒して、もう彼女の肉体において人目に晒されない部分などないんじゃないかとさえ思われるわけ。あのように身体性を徹底的に解体された女優って、かつていただろうかと目を剥くわけですよ。なのにね、そんな彼女が旅路の果てに得た対価がそんなんでいいのってな具合に、途中で私はキョトンとしてしまった。あそこまでやったんなら、資本主義も社会主義もフェミニズムも、あらゆるイデオロギーが相対化されてしまうような、人間の身体性に根差した絶対真理ってやつを映画は提出しなければならないのじゃないか。旅のそもそもの始まりが、性欲を起点としているのであれば、なおさらね。

原作は、おそらくは19世紀のドイツに始まるBildungsroman、いわゆる教養小説の系譜なんでしょう。というより、そのグロテスクなパロディとして書かれているんじゃないかと邪推するわけです。映画のなかでもゲーテが言及されてますし。それはいいんですよ。とてもいいんです。でも船上でのマダムや黒人とのアネクドートとかね、あそこはトーマス・マンの『魔の山』におけるサナトリウムのように、もっともっと教条主義を全面に押し出して、ベラ(エマ)を徹底的に啓蒙してほしいところですよね。ただし、それは映画映えはしないかもしれない。

アレクサンドリアでの天啓を契機としたパリでの堕落(=昇華=開眼)においては、ちょっとラースの『ニンフォ・マニアック』を想起するんですけど、せっかくあそこまでおのれの身体性を他者に投げ出したのだから、医学に邁進するモンタージュを挟んで、解剖に没頭するベラを並行して描いてほしいところ。そしてロンドン凱旋では、『ムカデ人間』や『兵器人間』も色褪せるような、とびきりのキメラをベラ自身が創造する……。しかし映画はそのような舵取りをしないんですね(まぁ、そんなことしたら、アカデミー賞にノミネートなんかされませんでしょうけど)。

所詮は真実の愛の物語であり、『青い鳥』の類型を免れない。リスボン市内の造形とか客船の設計とか、ウェス・アンダーソンばりの趣向を凝らしてもね、結局は凡庸な現実に回収されてしまうのかよ……と最後の最後で砂を噛むような思いにさせられたってのが、正直なところなんでございます。ラストのゴッドの死の前後の編集もね、ああいう紛らわしさはいただけない。

なんにせよ、ああいうゴージャスな絵を撮れる監督ってのは、おそらくいまどき貴重なんでしょう。しばらくは大物俳優を起用したビッグプロジェクトのオファーは続くのでしょうし、当たり障りのないゴア表現に甘んじていくヨルゴスを見ることになるのかもしれない。

いや、でも、『女王陛下のお気に入り』であれだけ豹変したクリエイターですからね。この先突き抜ける可能性だって十分あると信じております。

ところでエンドロールに映し出されていた部屋や建物、あれはなんだったんでしょう。まさか、私の家?
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