緑

ブレインウォッシュ セックス-カメラ-パワーの緑のネタバレレビュー・内容・結末

3.0

このレビューはネタバレを含みます

ニナ・メンケスによる
映画の性表現と女性差別に関する授業。

ハリウッドに於ける性差別や
性的暴行やセクシャル・ハラスメントが
問題であることに異論はない。
これまでに作られてきた映画の大半が
男性のまなざしによるものであることにも
異論はない。

けど、こうやって断罪していった先にある 「色気」の表現が想像つかない。
聡明さとか清潔感とかそういう内面特化の、
誤解を恐れずに言えば、
建前の色気ではない肉体としての色気は、
どうやって表現すればニナ・メンケスや
識者として登場してきた女性たちをも
納得させられるのだろう。
問題提起だけでなく対案もほしかった。

男性のまなざしによる刷り込み
(本作タイトルに即して言えば洗脳)が
男性による女性の性的搾取に
起因している論にも素直には頷けず。
ハリウッドに限定した話ならわかる。
が、そうでない社会全般の話であるなら、
「映画」ひいては文化的創作物を
過大評価しているように思えた。
こういった文化の乏しい社会でも
性暴力や性的搾取は行われている訳で、
映画にこれほどの大きな責任を
負わせるには少々説明不足ではなかろうか。

終盤で主体=男性/客体=女性の構図を
「マンディンゴ」の紹介を経て更に分解し、
主体=支配者/客体=被支配者としたのは
よいと思ったのだけれど、
他の例が出てこないものだから、
持論への公平性を保つよりも、
主体=男性=加害者/
客体=女性=被害者の印象が
より強まったのは、
監督の意図通りなのだろうから、

自分は女性であるが、
女性の身体を「男性のまなざし」で
鑑賞するのも好きだし、
自分の身体を「男性のまなざし」で
鑑賞されるのも好きだ。
ニナ・メンケスらからしたら、
男性のまなざしに加担する加害者とか、
男性のまなざしに毒された被害者とか
言われるのかもしれない。
ただ、実生活に於いて、
わざわざそこらの女性を
「男性のまなざし」で眺めることはないし、
「男性のまなざし」を超えて
接触されるのは非常に迷惑なので
断固として抗う。

やはり大事なのは、
フィクションとリアルの区別を
厳密に付けることと、
目の前の人間をカテゴライズせずに
自身と同じ人間として接することに
尽きるとしか思えず。
映画制作現場での性差別は
職業人として論外なので
今すぐ改めるべきだし、
これまでに作られてきた
男性のまなざし映画の比率は、
今後作られていく映画の数々で
均衡の取れた比率に
なっていったほうがいい。
願わくば「女性のまなざし」が
「男性のまなざし」への否定だけではなく、
女性による色気や性的行動を描いて
観客の感情をコンプライアンス以外で
動かすあってほしい。

撮り方や構図の話は興味深かったが、
ポジショントークに思える部分もあり、
果たしてどういう表現なら
どんなポジションからも
加害者/被害者をイメージさせずに
性的シーンを作れるのか、
下世話な意味で興味が出た。

あと、13歳に同意はわからないとか、
映画に洗脳されているとか、
もちろんそういう人もいるのだろうが
主語を大きくして論ぜられると、
首を傾げてしまう。

もうひとつ。
青地に白花柄の上に黒縁白文字の字幕は
かなり読みづらい。
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