dm10forever

差し出がましいのですがのdm10foreverのレビュー・感想・評価

差し出がましいのですが(2021年製作の映画)
3.6
【小さな親切・・・】

先日に引き続き「イタリア映画祭2023」の短編にて。

――他人の人生に干渉することに執着し、地方の小さな街を彷徨う男。彼は何人もの女性に出会い、彼女たちの隠れた悪癖や限界を明るみに出す・・・(映画祭オフィシャルサイトのあらすじより抜粋)

これはまた、一回観ただけでは飲み込めない不思議な感覚が残る作品。
「差し出がましいのですが・・・」と前置きしつつ、街角やカフェで見かけた女性たちに、様々なアドバイス(指摘?)を送る謎の男コレッリ。

中には疎ましく感じる人もいれば、自分を偽って生きていることを見抜かれて驚きを隠せない人、わかっていても自分の意思では変えられない事に対して背中を押してもらえたように感じる人もいる。
これらは必ずしも彼女たちが求めたわけではなく、あくまでもコレッリの中にあった「質問と観察の衝動」の先にあったもの。

そこでdmの中にも湧き上がる「質問と観察の衝動」

≪何故彼は女性だけを観察し、「差し出がましい話」を繰り返すのか?≫

実はこの作品の中では直接的にそこについて明確に回答がなされるわけではありません。
全ては彼の行動原理を探っていくことで見つけるしかない、まさに「質問と観察」の作品なんですね。

そんな中で彼が一貫して求めたもの。
それは「母親の姿」ではなかったのだろうか・・・と。
実は物語の中では彼の母親について殆ど触れられることがありませんでしたが、数少ないエピソードの前後でコレッリの心境に変化が見られたのは明らかで、恐らく「母」という存在が彼の中で大きな意味を持っていたであろうことは想像がつきます。

ではその母親はどういう人物だったのか?
唯一この作品の中で出てきた彼の母のエピソードは、生前に一度だけ「近所の騒音に関する苦情の陳情書を警察に提出していた」ということ、そしてそんな母のことを「立派な方だ」と警察官が称えたというものでした。
(ここで警察が「母上は立派な方だった」と言ったことで色々と解釈が生まれました。「自ら警察に陳情を行う行動力」を指したのか、いわゆるラテン系の女性のイメージのようにワーワーと事を荒立てることなく、極力揉め事には首を突っ込まない「慎ましい女性」という意味だったのか・・・)

こことコレッリの行動(考え方)を結びつけるのが実はなかなか難しかったんだけど、でも考えていくうちに、ちょっとうまく言葉では表現できないのがもどかしいんだけど、どこかでお母さんに近づきたいコレッリの愛情みたいなものがあったのかな・・・って感じたんですね。

作品の冒頭で墓地のような場所にコレッリが花を供えるるシーンもあったので、恐らく母に対する愛情は彼女の死後も変わることなく続いているんだと感じたし、彼の「差し出がましさ」の根源にあったのは「母の慎ましさ」と「ここぞの時の行動力」を理解しようと必死に「質問と観察」を続けた延長線上にあった行動だったのではなかったのかな・・・と。

女性にだけ色々と話しかけたのは、どこか彼女たちの中に「愛しているのになかなか辿り着けない母」を捜していたような気がしたんですね。
でも女性の心の中って男性には到底辿り着けないような深さがあって、コレッリにとっては「禅問答」にも通じるようなところに行き着いてしまったんじゃないのかな・・・と。

決して誰かを傷つけたいわけじゃない。
たいそうな意図があるわけでもない。
ただ、観察して、おしゃべりをして、そして知りたい。

でも、結局「質問と観察」だけでは答えが見つからなかった。
そんな彼が最後に取ったのは、言葉ではなく直感的に体が反応した「行動」だった。

もしかしたら、彼の「内向的な性格」とお母さんの死も関連があるのかもしれないとも思った(さすがにこれは考えすぎかもしれないけどね・・・)
だから、彼はこの女性たちの向こう側に霞んで見える母親に「質問と観察」を行っていたのだろうか・・・。

これはとても解釈が難しかったな~。
できればもう一回観たかったんだけど・・・間に合うかな・・・。
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