しの

月のしののレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
3.1
「生産性」の有無で他人の価値を判断しようとする思想はどこからくるのか、実は極めて卑近な所にその端緒はあるのではないか……という視点を描いたのは賞賛したい。ただ、『茜色に焼かれる』に続き、相変わらず社会課題を個人がどう頑張って生きるかの話に終始させてしまうのが片手落ちだなと思う。

凄惨な現実に対して綺麗な希望だけ描いて真の意味で向き合っていない、と批判される小説家が主人公に設定されており、つまりは自己言及的な構造をとっている。実際、本作では「人々が見てみぬふりをしている暗部」を白日の元に晒すのだという挑発的な演出・台詞が多用され、確かに刺激的ではある。たとえば二階堂ふみが酔って主人公を批判する場面、磯村勇斗が主人公と対峙する場面など、「みんな建前ばかりで本音と向き合ってないんでしょ?」という挑発に力が入っており、それに対して主人公は明確な反論を持ち得ない。それでも倫理を重んじるのだという最後の一線を「頑張って」守るのみだ。

この倫理の描き方は半分は正しい。他人を気持ち悪いと嫌悪する感情は誰しもあるが、だからといって「切り捨てて良い他者」の線引きなど絶対にできないしすべきでない。「なぜ他人を殺してはいけないか」への答えは「殺してはいけないから」というトートロジーでなくてはならない。でないと反証の余地が生まれるからだ。

その意味で、過度にデザインされた重度障害者施設の「暗部」を見せてこれでもその倫理を守れるのかと挑発したり、それを出生前診断と結びつけて同根の思想があると挑発したりするのは、一定の効果があるだろう。クライマックスなんて映画というより弁論だが、「本音」を噴出させる演出としてはアリだと思う。

しかし一方で、こういった挑発に「個人の倫理観」でしか対抗しえないことに違和感がある。そもそも、障害者なんて切り捨てろという思想は「本音」なのか? 社会構造によってそう思わされている部分もあるのではないかと思う。それは単純に、社会福祉を国がどう考えているかという政治的な問題だったりする。

二階堂ふみや磯村勇斗の挑発に対する違和感もここにある。つまり、厳しくて辛くて目を背けているものこそが「現実」なのだとするのもまた偏った物の見方なはずで、特に二階堂ふみについては自己肯定感の低さから「理想コンプレックス」に陥っている面が多分にあることも描かれていたはずなのだ。

こうして社会と個人の倫理観が崩壊した結果「普通の善人」が行き着く先が磯村勇斗ならば、そこに対置されるのが「頑張って個人の倫理を守る(よう運命づけられた)」主人公だけだと弱いと思う。生年月日が同じ重度障害者に出会って、自分も息子を亡くした経験があって、“生産性のない”夫がいて……そこまでしないと倫理的たりえないのだろうか?

この穴を埋めるのが二階堂ふみのはずだったのではと思う。というのも、まさにああいう余裕がなくて擦れてしまっている「普通の善人」が、いざ彼女のいう「辛くて厳しい現実」を見せられたときにどうするか、という部分が大切だと思うからだ。わざわざ犯行現場に立ち合う流れにしているのにここが描かれないのは不自然だった。普通の善人が有する倫理とは、むしろこういう場面で発露するのではないか。そういう人としての倫理に向き合わず、「“辛くて厳しい現実”に逃避する」思考停止が、今の日本の政治状況を招いているともいえる。

加えていえば、「頑張って倫理を守って生きることが報われることもあるのだ」ということを示す材料として夫の「夢」のエピソードを用意するのも違和感がある。これもやはり、「倫理を軽視して他者を切り捨てる社会は結果的に自分の命を脅かすのだ」という社会問題として捉える視点が薄れてしまう。

このようなテーマ処理だけでなく、あからさまにデザインされた重度障害者施設のビジュアルや、「ヒトラーも芸術家で〜」みたいな安易な説明台詞の多用など、映画としても「分かりやすく揺さぶる」ことを重視している。結果「個人が頑張って生きる」という分かりやすい帰結を選んでしまうのだろう。

もちろん、こういった分かりやすい戯画化や単純化、センセーショナルな挑発は、「おためごかし」が蔓延する日本にはある程度効果的だと思うけれども、一方で複雑なものを複雑なまま描く視点もあってほしいし、それはやはり「普通の善人」が構成する社会や政治を描くということだと思う。本当に希望を描きたいのであれば。
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