みかんぼうや

市子のみかんぼうやのレビュー・感想・評価

市子(2023年製作の映画)
4.2
杉咲花の圧倒的演技力。彼女が市子を演じていなければ、これほど心に残る作品にはならなかったのは間違いない。物語の内容自体は、私の生い立ちや歩んできた人生とあまりにもかけ離れていて、本来感情移入はしづらいストーリーなのに、終わってみればここまで市子に感情移入し寄り添いたくなる気持ちにさせられたのは、ひとえにこの難しい市子という役柄を演じたのが杉咲花だったことに他なりません。

まず、サスペンスとしての側面から捉えた時に、思わず先が気になる内容と見せ方で面白い作品ではありますが、“家族失踪物や身元詐欺物”というジャンルとして括ると、この類の作品はまあまあ多いこともあり(「ある男」や「さがす」等も内容は違えど大きくは同じジャンルでしょうか)、設定そのものや失踪者の過去を探っていく展開自体は、それほど新鮮でユニークなものだとは思いませんでした。

また、先に書いたとおり、本作で語られる市子の生き方はあまりにも壮絶で、自分の人生と重ね合わせられる接点を見つけることが難しく、ヒューマンドラマとして考えると、感情移入が難しかったのも事実で、メッセージがストレートに刺さりまくる感覚はありませんでした。そのラストを迎えるまでは。

そうなんです。ラストで一気にやられたのです。いや、正確にはラストの展開そのものにやられたのではなく、ラストで気づかされたのです。自分がいかにこの作品に感情移入していたかということを。


<以下、ネタバレ含みます>







ラストにオープニングと全く同じプロポーズシーンを見せられた時、市子の涙と笑顔の意味合いがオープニング時のそれと全く別物に見えて、途端に自分でも驚くほど涙が止まらなくなったのです。それは、その間の2時間に私たち受け手が市子の人生を追体験することで、心から笑える人生を歩むことができなかった市子という人物を理解し、そんな彼女が刹那的であっても真の幸せを感じて笑えた瞬間があのプロポーズシーンだったことに気づかされたからです。

つまり、自分でも意識していない間に、市子という人物に、そして彼女の人生に感情移入していたのです。自分の人生とは全く異なる彼女の境遇や生き方に、頭では入り込めていないと思っていたのに、実はすっかり引き込まれていた。こんな感覚はこれまでにあまり経験したことがなく、戸惑いつつも、そのラストでは、ただただ自分の正直な感情を解放せずにはいられませんでした。

そして、この感情移入の理由は、市子として生きる自由を手に入れるためにつかなければならない嘘、隠さなければならない事実、その罪悪感を背負いながら生き続けなければならないこの主人公を完璧に表現し切った(もはや同化の域に達していたと思います)杉咲花の演技に惹きつけられたからだと確信しています。

本作を観て数日経ちましたが、時間が経つほどに、市子という人物を恋しく思い、寄り添い、応援したいという気持ちが増幅しています。

私は、フィルマ超高評価の「湯を沸かすほどの熱い愛」にかなり低評価をつけてしまいますが、その中でも杉咲花という凄い若手女優がいることを知れただけで、あの作品を観た甲斐があったと思っていました。が、主演作を観るのは実は今回が初めて。そして、本作でさらにその魅力に惹きつけられました。

本作をもって、私の中では杉咲花が岸井ゆきのと並び、今後最も出演作を追いかけていきたい若手女優となりました。新作の「52ヘルツのクジラたち」の演技も大変楽しみです。
みかんぼうや

みかんぼうや