カッパロー

悪は存在しないのカッパローのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.5
「あそこは鹿の通り道なんだ。そのとき、鹿はどこへ行くんだ?」

「この10年間で、一番気持ちよかったっていうか、何というか。」

場所は日本の田舎。鹿たちの住む美しい冬の山々とそこに暮らす人々の元に、都会からの使者が2人やってくる。芸能事務所の社員である彼らは、住人を集め、その地にグランピング施設を建造することを説明する――

濱口作品の大きな特徴は、その特有の時間性にあると私は考える。1カットを長めに用い、大きな出来事の起きない「間」を大切に使う。その結果、観客はいつしか映画を観ていることを忘れ、ただ世界の中に没入していく。彼の映画を成立させるのに、華々しいストーリーや驚天動地のプロットは必要とされない。一切の飾りも、御都合主義もなく、ただ時が流れ人が息をしていればよいのだ。

物語を駆動させるまでの序盤に注目したい。ストーリーで惹きつける前にまず物語の舞台と観客の距離を縮めるべく、創意工夫がこらされているのがよく分かった。優れた音楽と共に見上げる木の葉、子供の迎えから帰る車のリアからの景色、子供を見つけ背負うまでをあえて覆い尽くす長回しのドリー。何か出来事が起きているわけではないのに、映像を観ているだけで退屈しなかった。

やがて、説明会をきっかけに、物語は動き出す。

主人公をはじめとした田舎の人々と、やってきた東京からの二人組には明確な対立があり、その間には悪意が渦巻く。だが、それは立場の違いによるものであり、後者の人々に"悪"があるわけではない。むしろ、会社員としての責務と自らに潜む善性の最中にもがき苦しむ、等身大の人間の姿がありありと描き出される。この描写は、そうした人間らしさを剥脱され一見"悪"であるような社長やコンサルについても、資本主義的な力学に則り運動しているだけの哀れな物体に過ぎないのではないか、と想像させる。

父と娘、都会と田舎、穏やかな音楽と不協和音、鹿と人間、生と死。本作品は、こうした二項対立を孕ませながらも、それらが断絶されたものではなくむしろ連続的な繋がりをもった存在であると看破する。明確な"悪"に物語のエンジンを担わせることへのアンチテーゼであり、この世界が(主人公が割っていた薪のように)真っ二つに分かれるものではないことを教えてくれたこの作品は、大事に記憶の中にとどめておきたい。



それはそうと、『ドライブマイカー』の車内とか、この作品の森の中でのお散歩とか、どうして濱口さんはこうも素晴らしい「空白」を作るんでしょうかね。退屈で冗長だと感じてもおかしくないはずなのに、なぜか心地よく感じてしまいます。作品の伝えたい主題というより、その見せ方と、作品に通底する空気がたまらなく好み。痛む左手を押えながら、居なくなった女の子の行方を案じベランダに立っていた女性は、あのとき何を感じていたんだろう。
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