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悪は存在しないのRenのレビュー・感想・評価

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.0
完全満席のル・シネマの最前列で鑑賞。『寝ても覚めても』以降の商業映画4作の中では一番好きだった。濱口竜介の一旦の総決算のような雰囲気もあり、名実共に世界のハマグチとなった証明の作品でもある。

濱口作品は『ドライブ・マイ・カー』で「崇高そうで難解そうで文学的」なイメージを世間に植え付けた気がするが、今作はそのような空気も纏いつつ、一層目の楽しみ方は従来作より分かりやすい印象がある。
豊かな自然と共生する人々と、その地にグランピンク施設を建設しようとする都会の人々の対立/対話を双方向から描く。他人にプレゼンしやすいストーリー。しかも上映時間も106分とコンパクトで意外と観やすいので、『寝ても覚めても』「ドライブ」が微妙だった人もこれならハマれる可能性がある。

自然の静的な美しさと、人々が交わす会話の動的なざわめきが交互に押し寄せて、ラストへ向けてスリルが増幅していく。前半とても冗長に山間の日常を描くが、前半から中盤に差し掛かる辺りの説明会の質疑からドライブがかかる。会話という最小限のアクションが生むスリルを信じている監督の真骨頂がここにあった。会話は軋轢であり親和であり、時にはボケ/ツッコミの漫才である(劇場で爆笑がドカンと2回ほど起こった)。長回しによってシーン単体を一幕劇として成り立たせるような箇所も多く、どこか今泉力哉風味も覚える。

が、やはり濱口竜介は「黒沢清の弟子」だった。ハートウォーミング一辺倒ではない、演劇のように作為的に撮られた日常に影が滲むホラー・サスペンスな瞬間が彼の真骨頂だ(『寝ても覚めても』の東出昌大、『ドライブ・マイ・カー』の岡田将生の配役は今思っても完璧)。
以前YouTubeで見た濱口評で「黒沢清弟子としての濱口竜介が好き。『寝ても覚めても』や『ドライブ・マイ・カー』はちょっと清っぽい。『偶然と想像』はいい映画だけどめっちゃ100%濱口竜介なのでそこまでノれていない(意訳)」というのがあって、自分もこれに完全に同意。それで行くと今作は、『偶然と想像』チックな対話コメディの妙もありつつ、やけに広い空間の落ち着かなさ、着地点不明の不穏さ、霧や車など黒沢清として語れる点も多くあった。

絶対に避けては通れない衝撃のラスト。
爆速で終わるエンドロールと相まって、劇場が明るくなってからも困惑が止まらない。『悪は存在しない』というタイトルに対してティピカルすぎる気もしたが、古典の名作以外でこれほど解釈を放り投げられる体験を最近していなかったので好意的に見たい。映画を観て抱く感想や解釈はもっと多様であっていい→ならば多様になる物語を作ろう、というスタンスだろう。観る者の存在を踏まえた上での作劇なので、「これは、君の話になる」というコピーは正しいと思う。面白い現代文に触れたときの後味。
とは言え無茶苦茶で突飛な訳ではなく、ラストにあれが絡んでくることへの布石は丁寧に打ってある。

世界を善悪の2色に塗り分けることはできないし、諸悪の根源を1人の悪役に押し付けられるほど世界はシンプルではないと、複雑さそのものを中心に置いた邦画としては近年だと『怪物』がパッと思いつく。現行の邦画を牽引する巨匠2人が、SNS世代の二元論主義時代にこういう作品を撮るのは必然と思う。
「人間と自然」も「人間と人間」も相容れないが、人間も自然も全く一筋縄ではないという点で実は重なっているかもしれない。網目状に広がる木々の長回しが雄弁に思えてくる。濱口竜介にそう思わされているだけかもしれないが。

その他、
○『ドライブ・マイ・カー』に続きコロナ禍を反映した脚本。現代劇だ。
○ 石橋英子の劇伴はホラーの文脈で使われているが、やや技巧に寄りすぎている気がした。過剰すぎるとも言うべきか。自然という題材に騙されがちだけど従来作品以上に今作は作為的な映画だと思う。



《⚠️以下、ネタバレ有り⚠️》










衝撃のラスト。花は「人を襲わない」鹿と対峙し、巧は高橋の首を絞める。計画的犯行にしては方法が杜撰な気もするので、自分は衝動だと考える。現時点での自分の考察は以下。正誤は知らない。

①花の生死は?
巧と高橋が到着した時点でおそらく花は亡くなっている。死因は銃弾を負った弱っている鹿に襲われたこと。
花が黙ってニット帽を脱ぐのはあの状況下としては流石に演出的すぎるので、「花がリアルにあのような行動を取った」というよりは「何かの象徴としての、叙述トリック的な演出」と見るのが自然だろう。
帽子を脱ぐとは警戒を解くための行為だ。説明会の場面で巧が外部者2人に語り出すときも彼は帽子を脱いでいる。「『花は帽子を取ることで未知の自然に心を開こうとした』と巧は思った」のではないか。そもそもお迎えすら忘れる、親としてどこか無責任な感のある巧だ。自分が花に目を向けていなかったからこうなった、と現実を直視する直前に、自責を薄めようと「花の行動理念を想像した」欺瞞を象徴したシーンなのではないか。

②巧はなぜ高橋を襲ったのか?
物語的な意味:部外者のお前(ら)の相手をしてたから花は死んだんだという憤りからくる衝動の暴力....以上の読みができなかった。花が生きていると分かっていたら高橋より先に花の方へ行っていただろう。
メタファーとしての意味:人間たちは自然と共存を目指したが、鹿に襲われ命を落とすように、どこまで行っても別物で相容れないのだ。都会の人々と協力し共栄を目指した田舎の人々にも言えるのではないか。
対話によって分断は避けられる、と建前としては思っていても、できないときもある。誰が悪でもないが共存は不可だという現実を、対話という人間的な行動抜きにして暴力で動物的に演出したのではないか。鹿(自然)/花(田舎)に対する、巧(田舎)/高橋(都会)。
巧と高橋が2人で行動していた理由も、巧が高橋を襲う(双方の共存はできなかったことが示される)直前まで「高橋は巧を理解し共存しようとしていた」ことの象徴ではないか。人探しは別行動のほうが効率的だ。薪割りのシーンでお互いが歩み寄ったと思わせてから、真逆のカタルシスでサスペンスへ変貌させるラスト。油断も隙も無い。
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