わかうみたろう

悪は存在しないのわかうみたろうのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 移動と停止の反復、水のモチーフなどが生死に繋がってていた。タルコフスキーのような。だるまさんが転んだをする子供のシーンがハイライトで、動きが止まっていると生きているのか死んでいるのかわからなくなる、シュールであの世のようともいえる不気味な雰囲気がたちこめる。娘がよく行く湖?の動きのない不気味な感じとかも。ドライブでの移動と車内の会話シーンなど、何かが常に動いては止まってを繰り返すのは、人間の動きだけではなくて水もそう。自然から流れてきた水は井戸に留まり、やがて煙や霧となって再び動き出し自然に変える。ラストに芸能事務所の男が倒れるシーンも、一度体の動きが止まってから、霧立ち込める中再び動き出し倒れる。自然に帰ったのは、芸能事務所の理由のわからない仕事をしていた男にとって幸せなのかどうか。あるいはまだ生きてたとして、男はもう一度都会に戻るのか、自然のある町に留まりたいと思うのか。 
 会話と移動のリズム感も面白くて、移動する車から見える風景を淡々と取るだけで面白く見えるのはケリー・ライカートのOLD JOYを思い返した。 
 人気の少なくなった子どもの居ない駐車場でボールが止まっているのを観た時、生と死が子どもとかかわってくるのかとわかり、まあこの映画は娘と死がどうラストに繋がっていくかが落とし所かと思ったが、芸能事務所で働く高橋の死が関わってくるのがやはり驚き。まああの男もこの映画の世界では子どものような、バカともいえる純粋さを持っている存在で、合理性や理屈では動いてない。村の人々はむしろ理屈が立っていて、大人であった分、不気味でもある。そして、もう一人子供っぽい性格をしていたのは先生と呼ばれていたお祖父ちゃんか。年老いた彼も死にゆく存在である。
 子どもの死と大人の死は意味が感じるところが変わってくる。まだ12歳で若い子にはノスタルジーの言葉は関係ない。しかし、都会にすり減っている大人の高橋にとってはノスタルジーはとても重要なものだったろう。とはいえ、死をもたらしたのは人間であり、瞬発的で野性的な行為だといえども、あるいは子どもを守るための行為だといえども、人間であるからには、主人公に対して責任の言葉を向けたくなる。例え人間も自然の一部であるとしても、その責任を考えないでいられることはできないだろう。もとから嫌っていたなどの感情の部分も考えて合理的にとっさに体を締めた行為を理解しようとしてしまうのは人間のさがか。大自然と比べて人間の思考のとんでもないちっぽけさを撮っていた。監督が好きなのシーン代わりの繋で映像を展開していく手法も面白くて、静かな作品なのに映画的な驚きと刺激のある体験であった。
 死に対しても幸福と不幸では分けられない、そういうものでしか無い、という不条理さを生み出していた。が、その不条理さに面したときこそ、人間は頭で考えなければいけなくなり、生の意味を考え出してしまうもので。死に対しての意味は一生わからない。

 娘のセリフが少なかった印象。監督の演出方法や棒読みにも聞こえる台詞回しとは合わないとくんでのことか。子どもが話せない、代わりに高橋を登場させて言葉での子供っぽさを作り出したのか。

 あと、勝手な解釈も込みだけど考えたいのは満州のこと。石橋英子は満州にルーツがある人らしい。満州にユートピアを求め開拓した日本人とこの映画の高橋の姿は重なる。そして、満州に住んでいた人と村の住民である娘は死を持って自己を喪失した。満州のことを勉強せねばならないと思ったが、濱口はスパイの妻でも満州を題材にしている。彼の歴史観ももっと知りたくなった。スパイの妻でも、満州と無声映画という映画的なノスタルジーとがつながっていたし。けどノスタルジーとか理想っていった何かへの憧れ、別のところへ向かっていこうとする動きは暴力ともつながってるのは、ドライブ・マイ・カーで雪景色の後に原爆ドームの画が入ってくるのからもどことなく感じさせられる。