Kei

悪は存在しないのKeiのネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

山奥の町で暮らす巧をはじめとする住民と、グランピング用地開発計画を行う芸能事務所との間に発生する問題を描いた作品。
水挽町で暮らす住民の中には開発主体の芸能事務所が環境配慮を十分に行っていないとの理由からグランピング用地開発計画に反対する者がいる一方で、巧は開発と環境のバランスを取ることが重要であると唱え、開発に真向からは反対しない。
高橋、黛ら芸能事務所側の提案は、予算の関係から、住民の二つの主要な要求、①若者をはじめとするグランピング施設宿泊者が、禁止されている焚火を行わないように、管理人を雇い24時間体制の監視を行うこと、②川に流れる生活排水が環境に与える影響を小さくするために浄化槽を施設の中心部に据えること、のうち②を満たさないものであった。
こうした事実だけを住民の視点一面から見ると、鑑賞者は高橋、黛を「住民の意見を計画に反映しようとしない悪者」として捉えることになる。
しかし、物語が進むにつれて、高橋、黛もこのような住民の要求を蔑ろにし半ば強行に開発計画を進めることは本意ではないことが明らかになってくる。
高橋、黛にはそれぞれの理想があり、理想を実現するために強行な開発計画を実行することを余儀なくされているのだ。
本作においては、高橋や黛を「仕方なく『悪』の側に回っている社会の被害者」として描いている。
私たちの日常生活に頻繁に現れる「悪」は客観的に存在するのではなく、人が物事を一面的に捉える態度の結果として生成される「悪」であり、それ故にそうした「悪」は本質的に悪であると言えるのかを問うていると考えられる。
また、終盤にある、巧の娘・花が鹿に攻撃されるシーンは、今の世代が環境を無碍にするような態度を取ってしまうと、そのツケは子供世代に回って来るのであり、それ故に環境に対する配慮を行うことは私たちに求められているということを暗示しているのではないかと考える。
こうした明確にメッセージが伝わった部分があったものの、巧が鹿に襲われそうな花を助けようとはせず、高橋を殺そうとした理由はまだ分からないため、他の方の考察などを読み理解していこうと思う。
作品を見始めた当初は巧を演じる俳優の棒読みに近い演技のために作品に没入することが出来なかったが、物語が進むにつれ徐々に巧のぶっきらぼうなキャラクターとマッチさせるために敢えて棒読みの演技をさせているのではないかと考えるようになった。
しかし、巧のキャラクターを考慮した上でも、あそこまで棒読みの演技である必要性が分からなかったため、こちらも自分なりに考えてみようと思う。
音楽は最初から最後までオーケストラが奏でている心地いい音楽であり、音楽が鑑賞者に与える情報量が少なかったため内容に集中することが出来た。
また、作品冒頭に表示される本作品名の英題 Evil Does Not Exist が赤と青で書かれており、ゴダールをはじめとしたフランス映画さながらのオシャレさを感じた。
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