ナガエ

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章のナガエのレビュー・感想・評価

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いやー、やっぱり浅野いにおは面白いなぁ。『うみべの女の子』はマンガを読んで、実写映画も観たし、『ソラニン』『素晴らしき世界』『おやすみプンプン』辺りはマンガを読んだ。『零落』は実写映画だけ観た。どれもホント、凄くポップな感じなのに自意識的な部分にズサズサ突き刺さる感じがあって、その世界観とか心情描写とかそこはかとないドライさとか残酷さなんかに、いつもヒリヒリさせられる。

本作『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(なんて略すのが正解なんだ?『デデデデ』でいいのかな)も、まあ素晴らしかった。ちなみにマンガは読んでいない。どれぐらい原作に忠実に作られているのか不明だ。

まずド頭から、トップスピードで物語が展開する。東京の上空に謎の巨大飛翔体が現れたのだ。正体不明だが、何もしないわけにはいかない。日本政府からの要請で米軍が出動するのだが、そこで彼らは、開発中だった(んだと思う)新型爆弾を日本側に伝えることなく使用、そのせいで大田区は汚染され、「残留A線」と呼ばれる電波が常に出続ける状態が続いた。3年経った今も。

という感じで物語が始まる。おぉ、なんだなんだ、という感じでドドドッと開幕するのだが、そこからすぐ物語は3年後に移る。東京上空には今も巨大な<母艦>が浮かんでおり、しかし3年間特に何の反応もない。だから人々は、「上空に謎の巨大物体が存在する」ということを除けば、普通の暮らしを取り戻している。もちろん、すべての人がそうというわけではない。大田区は今も汚染されたままだ。そして、新型爆弾の使用や大田区の汚染などに対する抗議デモは度々行われている。主人公の1人である小山門出の母親は、大田区から離れた下北沢に住んでいるにも拘らず、汚染を気にしてマスクとゴーグルを室内でもつけている。<母艦>からは、度々偵察用だろう小型円盤が出てきて、時々墜落したりするが、その残骸は米軍がすべて回収していく。「8.31」(3年前の悲劇はそう呼ばれている)から、何も変わっていないわけではない。

ただ、「東京上空に謎の巨大な物体がある」という異常事態が眼前と存在する割には、その変化はあまりにも穏やかと言えるかもしれない。門出はある場面で、「失いたくないものがある」と口にした人物に、こんな風に返していた。

『8.31の時、私期待したんです。
失いたくないものなんて何もないから、いっそメチャクチャに壊してくれても構わなかったのに。』

そんなわけで、怒涛の冒頭からぴょんと移った3年後の物語は、小山門出と、その親友である中川凰蘭(おんたん)の気怠い日常がメインで描かれていく。

女子高生の日常は、バカバカしく始まりバカバカしく終わっていく。暇さえあればオンラインでシューティングゲームをしている2人だが、栗原キホ、出元亜衣、平間凜の仲良し5人組でアホみたいな会話を繰り広げたりしている。

やはり関心事は恋愛である。栗原キホは小比類巻健一に告白して付き合うようになり、そのことでおんたんから”裏切り者”的な扱いを受けるものの、リア充を目指すキホは気にしない。一方の門出は担任の教師・渡良瀬に恋心を抱いており、色々アクションを起こしたりする。そして親友であるおんたんは、そんな門出の恋は応援している。そんなおんたんは、常に訳の分からないハチャメチャなことを言っては場をかき乱し、しかしそれでいて5人のバランスは絶妙に保たれているみたいな、そんな関係だ。ある場面で彼女たちは、「仲が良すぎて吐きそう」みたいに言ってた。まあ、そんな感じだ。

んで、まずはとにかく、この女子高生たちの会話が面白い面白い。世界中の「無駄」を集めて煮詰めてバラまいたみたいな会話は、聞いているだけで心地よく、その中身のなさにうっとりする。しかも、おんたんの声を担当しているのがあのちゃんなのだが、おんたんがあのちゃんそのもの過ぎてびっくりした(平仮名が連続する文章だけど、ちゃんと認識できるかしら?) おんたんは完全に、あのちゃんが普通に喋ってるみたいな感じのキャラクターで、しかもそれが絶妙にハマっているのだ。浅野いにおがあのちゃんに当て書きしたのか、あるいはアニメ化にあたっておんたんをあのちゃんに寄せる演出をしたのかはよく分からないが、とにかく「おんたんがあのちゃんそのものである」ということがとても良かった。おんたんはあまりにぶっ飛んだキャラなのだが、観ながら「まああのちゃんだしな」みたいな謎の納得感があって、メチャクチャ良かった。おんたんにあのちゃんをキャスティングしたの、大正解過ぎるだろ。

作中には『イソベやん』という、明らかに『ドラえもん』をオマージュしたような”国民的マンガ”が登場し、そのメインキャラクターであるイソベやんのことが好きな門出の口からイソベやんの話が出てきたり(のび太をオマージュしたデベ子という役の声がTARAKOだった)、あるいは、<母艦>に強く関心を抱くおんたんが墜落した偵察機を見に行ったりと、まあ色んな日常が描かれるわけだけど、それはとにかく「日常」という感じで別に何も起こらない。「上空に謎の巨大な物体がある日常」をとにかくひたすら描き出していくのだ。

本作の連載は2014年から始まっているので、もちろん偶然なのだが、この「上空に謎の巨大な物体がある日常」はある意味で「コロナ禍」と重なるように思う。というのも、「全世界の人が同じ問題に関心を向けつつ日常を過ごしている」からだ。9.11のテロも東日本大震災もウクライナ侵攻も、もちろん世界規模の問題だが、しかしそれらは「世界中が同じように関心を抱く事柄」ではなかったように思う。しかし「パンデミック」は、否応なしに世界の関心を完全に一致させたなと思う。そしてそのような世界における「日常」が、結果として、本作の「上空に謎の巨大な物体がある日常」と重なっているように感じられたのだ。これがパンデミック以後に生み出された物語だとしたら、また異なる受け取られ方をしただろう。パンデミック以前に発表しておいて良かったと言えるのではないかと思う。

さて、この辺り、マンガではどういう展開になってるんだろう。「劇場アニメ」の場合は、「2時間分の物語を最初から最後まで観てくれる」という前提で作れるからこの形で問題ないけど、連載のコミックの場合、なかなかそうはいかないだろう。劇場アニメ版と同じように、「しばらくひたすら、女子高生のバカ話を展開させ続ける」みたいな感じだと、読者を惹きつけるの難しかったりしないんだろうか。

というのも本作では、中盤ぐらいから「えっ?」って感じるほど、物語のテイストがガラッと変わっていくのだ。そしてこのテイストが変わってからの展開もメチャクチャ良かった。

それは、小山門出とおんたんの小学生時代の話である。物語の中盤以降の展開になるのであまり具体的には触れすぎないようにするが、一番印象的なのは、高校時代の2人とは性格が全然違うように見えることだ。マジで、この小学校時代の話と高校時代の話がどう繋がるのか全然分からない。少なくとも、前編ではその謎は解消されないのだ。

小学校時代はむしろ、門出の方がヤバいキャラクターとして描かれる。そして、このヤバい門出がメチャクチャ良かった。この辺りはまさに、浅野いにおらしい「自意識をズサズサ突き刺してくる」感じである。

ここでのテーマの1つは「正義」である。本作で突きつけられるこの「正義」の話は、実に興味深い。なんとこの小学校時代の話に「イソベやん」が関わってくるわけだが、まあ観ていない人には意味が分からないだろう。しかし、この絡ませ方は上手いなぁ。

さて、この「正義」の話については少しだけ補助線となる情報がある。小学校時代の話が描かれるより前、高校時代の物語の描写の中でおんたんの兄が登場するのだが、彼が「ネット監視」に勤しんでいるという話が出てくるのだ。そしてその話も踏まえて考えるとやはり、「ネット上での『歪んだ正義感』による様々な行動」が風刺的に描かれていると考えるべきだろう。

さらにネットの話で言えば、ある人物が歪んでいく過程にもネットが関係している。その人物は、「ネットではみんなこう言っている」ばかり口にして、ネットで流布している情報を鵜呑みにしている。その人物は、みんなが知らない情報を自分が知っていると考えているし、それらを元に正しい判断が出来ていると思っているし、自分以外は適切な思考が出来ていないと考えている。しかし、傍目には明らかに、その人物の方が狂っているように見えるのだ。

そんな人物に対して、「間違ってるとしても、大事なことは自分の頭で考えたいの」と突きつける人物もいる。このやり取りもまた、とても印象的だった。

これらネットとの関わりは、昔から指摘されていることではあるが、やはり「コロナ禍」を経て一層悪化したとも言えると思う。そう考えると、先程の「日常の描写」も含め、どうしても「コロナ禍」と重ね合わせたくなる物語だなと思う。「予言的」という言葉は使いたくないが、なんとなくそうも受け取れるような、今の時代感にもとてもマッチした物語だと思う(まあ原作を読んでいないこともあり、今僕が「コロナ禍」との関連を指摘した部分は、アニメ化の際に付け加えられたものという可能性もゼロではないかもしれないが)。

さてそんなわけで、「わりとほのぼのした女子高生の日常」の後で、「かなり狂気的な小学生の日常」が描かれ、その落差に驚き、さらにその繋がらなさに困惑し、マジでこれから何がどうなるんだ? みたいに思っている内に前編の物語が終わってしまった。おいおい、後編が気になるじゃねぇか。しかも、元々後編の上映は4/19からの予定だったのに、5/24からにズレたらしい。おいおい、待ち遠しいじゃねぇか。

前編も、物語としてとても面白かったが、最後まで観てみるとやはり、「キャラ紹介」「設定紹介」「伏線の登場」などに終始したんだろうなぁという感じがした。とにかくストーリー的には今のところ、ほぼ何も分かってない。前編のラスト、「◯◯が空から大量に降り注ぐ」という場面がどうなっていくのか謎だし、最後に表示された「人類☓☓まであと半年」(☓☓は僕が伏せただけで、実際には文字が入る)の表記も謎だし、とにかく全部が謎すぎる。これで上手いこと着地してくれたら、言うことない物語だぜ。メチャクチャ面白い。

さて、あと触れておきたいことは、「幾田りら、声優めっちゃ上手いな」ということだ。実はそのことは、映画『竜とそばかすの姫』の時点から分かっていた。この時が声優初挑戦だったはずなのだが、メチャクチャ上手くてびっくりした。そして本作では、小山門出を演じている。おんたん(あのちゃん)との掛け合いがとにかく素晴らしくて、ホント完璧だったなぁ。

正直なところ、門出とおんたんが喋っているシーンでは、幾田りらとあのちゃんが頭に浮かぶ。恐らく一般的には、声優としてはこれはあまり良くないんじゃないかと思う。分からないけど、役に溶け込んで「声優」としての個人が見えない方が理想的なんじゃないだろうか。しかし本作においては、幾田りらとあのちゃんの姿が浮かぶことがむしろプラスに働いているように思う。上手くは説明できないが、少なくともそのことが決してマイナスには働いていなかったと思う。

たぶんだが、声だけではなく、その性格や振る舞いまで、門出と幾田りらが、そしておんたんとあのちゃんが似ている感じがするからだと思う。もちろんそれは、観る側の勝手な希望というか、「きっとそうなんじゃないか」みたいな予想でしかないのだが、そのことによって、小山門出と中川凰蘭という2人の人物像がとにかく圧倒的にリアルなものとして立ち上がっている感じがする。

さらにもっと言えば、幾田りらとあのちゃんはともに「現代のポップアイコン」みたいな存在であり、そしてそんな2人が「終わってしまったみたいな世界の中で奮闘する役」を演じることで、どことなくこの「デデデデ」の世界に予期せぬ希望みたいなものを注入している感じもあるのだ。「現代のポップアイコンなら、この狂った世界をなんとかしてくれるんじゃないか」みたいな観る側の無意識の希望みたいなものが、鑑賞する態度に若干影響を与えているような感じがする。そういう意味でも、幾田りら・あのちゃんの姿が声から透けて見えることは、少なくとも本作においては大正解だったのではないかと思う。

後半も観ないと全体的な評価は出来ないわけだが、とにかく前編は、「後編への期待」みたいな部分も込めて非常に良かったなと思う。ホントに面白かった。早く後編が観たい。
ナガエ

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