えいみー

箱男のえいみーのネタバレレビュー・内容・結末

箱男(2024年製作の映画)
2.8

このレビューはネタバレを含みます

「こんな変な映画見たことないでしょう」とどっかのレビューに書いてあったように、どう考えても好き嫌いの分かれるだろう実験的作品。シアトル国際映画祭ではチケットは全日完売だったのだが、最も小さいシアターでやったので他の映画よりも観た人は結局少ないと思う。「変な映画愛好家」の人がプレゼンターで、会場はいびきと笑いが入り混じっていた。私は小説未読なので、感想を書きづらいが
とりあえず、浅野忠信や佐藤浩市の変態シーンが観たい人は元がとれるでしょう。ダンボールをかぶるということを巡り、終始アツい想いとアツい戦いが繰り広げられるわけなので、中途半端だと失敗しそうな話だが一応世界観は完成されていて、見苦しいし変が失敗作ではないと思う(あの女優さんの演技はちょっと失敗に入る気もしますが・・・)

「from scenery to seer(景色から観察者となる)」とは、仏教などさまざまなスピリチュアリティや哲学の世界で大切であると言われていることである。この人生はあくまでゲームであり、だからこそこの景色の一部となって苦しむのではなく、景色を常に観察する側となり、達観することが、悟りの道の第一歩となる。

箱男は、ダンボールをかぶることで<自分>というものをなくし、
全てを達観する観察者となることを目指した人たちのことなのだろうと私は解釈した。

・・・そんな悟りの境地を目指してみるものの、
箱男を目指す凡人どもにはとてもとても全てを達観するなんてことはできるはずもない。彼らは結局観察者ではなく、見られている「景色」の一部の方となってしまう。彼らは結局のところ自分が本物の箱男であるかないかにこだわるほどに凡庸であり、箱男となり悟りを開く境地などとは無縁の、自分の目先の欲望に囚われた衆生に過ぎなかった。

箱男になるということは、自分の所属しているもの全てを脱ぎ捨て、無我の境地に至るということでもある。だが、凡人の彼らは結局のところ自分というものをなくすことなどできるはずもなく、自分こそが本物の箱男かどうかということにこだわり、その思考すらも誰かに支配されているのではないかと怯える。無我どころか結局箱男というアイデンティティにしがみつくことになってしまうとは・・・衆生はなんて愚かなのだろうか。

だけど、結局そんな「箱男になりたいゲーム」も、「箱男であること」も、きっとあまり本質的には違わないのだ。なぜなら箱男も箱男にみられる人たちも、全ては世界の一部であり、世界は全て境界なく繋がっているから・・・。

そんなふうな哲学的な解釈をしてみたものの、きっとこの映画を観た観客のわたしたちに長く残るのは、佐藤浩一と浅野忠信の豪華キャストによる変態プレイと、白元彩菜の美しい裸体と、「箱男でも、結局S*Xのためには箱から出るんだな・・・女のためには外にすら出るんだな・・・」という、「結局最後はエロかよ」という残念さと失望感と、・・・クソくだらないな、という嘆きかもしれない。

・・・あと、監督、結局、一番最後のオチがやりたかったから27年この話をあたためてきたとかないよね? 最後のオチだけは確かに映画でないと表現できないかもしれないし、確かに箱男という<観察者>というアイデンティティが一体何なのかを表現する方法として、筋は通っているとは思うオチではあったと思う。とりあえず小説を読もうかな。