昼行灯

幕末太陽傳の昼行灯のレビュー・感想・評価

幕末太陽傳(1957年製作の映画)
3.8
コメディなのに描かれる淡い死の匂い、でもそれをものともしない登場人物たちに強さを感じた。
ここで描かれる遊女たちの殴り合いが『さくらん』にも通じたのかな~などと思ったりもしたり。俳優みんな早口の江戸っ子口調なところも勢いがあっていい。今では難しいだろうな。
冒頭で50年代撮影当時の品川が映されるけど、当時としては現代と幕末の品川を対比させる意味合いがあったのだろうが、今となっては50年代の品川の赤線地帯を見るうえでの貴重な映像になってしまっている。思えば当時と幕末とは90年くらいしか開きがないわけで、売春禁止法が施行したといえども幕末の遊郭の雰囲気を残していたんだろう。遊郭建築巡りたい~~

2回目
映画観るようになって、この映画が石原小林を差し置いてフランキー堺が主役はってるというヤバさを感じる。幕末太陽伝と言いながら、太陽族のドン・石原を脇に追いやるなんて、アンチ太陽族映画ともいえるんじゃないか。しかも「俺はまだまだ死にまさぁ」と言いながらフランキー堺は若者って感じがしないのがまた、、太陽族ゼロやん。急に顔面ドアップになったりちょっと太陽族映画感はあった

フランキー堺のキャラクターと作中の役割が分かりやすく一致しているっていうのがグランドホテル形式だけど混乱しない秘訣なのかも。狂言回しとしての役割と、妓楼の男衆というキャラクターが上手くはまってる。ただその役割が前面に出されてるからこそ、彼の素性はほとんど語られず、なぜ彼が咳をしてるのか、なぜ無一文で大尽遊びしてるのか、女遊びは禁物なのに妓楼に来たのかということははっきりしないし、他の登場人物が深く問い詰めることもない。動機は不明瞭であるが故に、動機のヒントとなる可能性のある悪い咳が一層物語に深い影を落とす。死が喜劇となっていた物語中盤から咳き込みの激しくなるラストの墓地のシーンにかけて、ますます死の色が濃くなっていくのが不安になる。ラストはそこからの逃避としての疾走とも考えられるが、画面の向こう側、すなわち観客に対する彼岸に向かって走っていると言う意味ではもうフランキー堺は死んでしまうのでは、、とも思う。
性的不能という意味で川島雄三その人とも重なるところがあるので、この演出が早逝した監督の未来を示唆してたのではと思うとそれはオカルトチックか。もしくは川島雄三がそう思ってたのかもしれない。

古典落語のパロディが散りばめられてるそうだが、同時にそれは時代劇の古典的ストーリーのパロディ化でもあるともいえる。心中という何度もメロドラマの主題にされてきた物語をギャグ化したり、怪奇映画に必須の幽霊の出現をトリック撮影とはむしろ真逆に幽霊役が逃げる演技をあからさまに映したりとこれまでの約束事を崩すような諧謔精神が面白い。あと遊郭物だけど、全くエロがないというのも新しいのでは。
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