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幕末太陽傳のbeachboss114のレビュー・感想・評価

幕末太陽傳(1957年製作の映画)
5.0
粋な所作、リズミカルな動き、テンポのいい会話、小気味良い展開。それらが相まって、いつまでも浸っていられる心地良さ。

忘れた頃にふと見たくなり、回数を重ねるごとにディテールの面白さやメッセージ性の深さに気づいてジワジワと病みつきになっていく作品。

初めて見たのは学生の頃、「日本映画を代表する傑作コメディ」という定評につられて背伸びして。当時は正直、どこが面白いのかサッパリ分からなかったが、年を重ねてビジネスの世界に身を置くようになると、主人公・左平次のキャラクターにこの上ない憧れと共感を抱くようになる。

並外れた突破力と解決力で周囲の信頼を勝ち取り、デコ助な外見から一転、才能や力量に惚れさせて、言い寄る女郎たちを袖にするカッコ良さ。

実利主義でドライで抜け目のないお調子者に見えて、意外な情の厚さ。

知恵と機転と要領の良さで片っ端から揉め事を解決していく姿に惚れ惚れする一方、持病を押し隠して人前では笑顔でお調子者を演じる姿や、時折見せる寂しそうな表情が胸に迫る。

いわば庶民のスーパー・ヒーローであり、スーパー・サラリーマンな活躍にシビレるんだけど、その辺りの面白さは、さすがにある程度の年齢に達して、そこそこ社会経験を積んだからこそ、ようやく理解できるようになれたのかも。

古典落語がベースになっている点ばかりが強調されがちだが、落語が由来の映画なんて昔からそれほど珍しくはなく、あくまで物語や登場人物などの構成要素や背景にすぎない。居残り左平次というキャラクターを引用し、そこに肉付けして現代の庶民の生きざまを投影・象徴させるための手段の一つ。

そこはむしろ、「太陽族」など当時の世相や風俗の反映に注目して読み解いた方が楽しめる。タイトルからして「太陽」なんだから。石原裕次郎が出ている理由もそこにある。

登場する勤皇の志士に、高杉晋作や久坂玄瑞など、志半ばに若くして命を落とした連中を配している辺りにも、制作当時の血気盛んに生き急ぐ若者たちと、乱世をしたたかにしぶとく生きる左平次ら庶民とを対比させる意図が感じられ、そこに時代を超えた普遍性が息づいている。

主人公の「てめぇ一人の才覚で世渡りするからにゃあ、首が飛んでも動いて見せまさぁ」という啖呵は、歌舞伎の「東海道線四谷怪談」のアレンジ。あちらは首を切られても動いている鰻の胴体に喩えられたものだが、左平次の場合、動いているのは体ではなく首、すなわち頭の方。

ひいては、肉体は滅んでも矜持や心意気は消えずに受け継がれていくという解釈とも取れる。だからこそ、ラストの「地獄も極楽もあるもんけぇ。俺はまだまだ生きるんでぇ」という、作り手の思いの丈がこめられた台詞につながっていく。

しかし、そんな主人公の世渡り術も決して万能ではなく、最後に登場する田舎の金持ちの純真さにすっかりペースを狂わされる。

口八丁で数々の修羅場を切り抜けてきたお調子者が「てめぇ一人の才覚」に溺れて傲慢になっていたところに返ってきたしっぺ返し。得意技が通用しない相手を前に、世渡り術というものの底の浅さを思い知らされ、逃げ出すしかなくなる。

行き着く先は次の宿場か、そのまま時代を走り抜けて、現代か。いつまでも逃げ続けるだけなのか、逃げながら次の一手を考えているのか、そこは観た人の解釈次第。
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