nere795

別の世界のnere795のレビュー・感想・評価

別の世界(2024年製作の映画)
3.0
作中の子役たちを始め多くの村人たちが、素人の住人たち(舞台は架空の町だが、その撮影地の住人という意味で)である、という驚き。ニューシネマパラダイス等の例もあるから、今作が特殊という訳でもないのだろうが、ごく自然な演技を見ていると、イタリアの生活がまさに絵になるというのを思い起こさせる。

ストーリーは、まあ陳腐で、坊ちゃんのイタリア版という程にも、悪役たちもそんなに強力でもなく、割とすんなりとご都合主義的に話は進んでいく。逆に言えば、ドキドキ感もハラハラ感もないけど、安心してくすぐりに乗っかって笑って観れる、そんな映画。

ポリコレ的に抵抗がある…みたいなレビューもあるが、まあイタリア人の本音なんて、というか日本人の本音もだが、それも含めての人生なんじゃないか? 映画で人を殺したり、もの盗んだりしちゃいけないのか?ってあたりを少しは考えてみたらどうだろう?

こんなイタリアコメディ映画でも、日本批判しないと気が済まないのか?地震復興だのヘイトスピーチだの言ってる割に、じゃあ自分がボランティアで現地に行ったり、難民への支援とかしてるのか?っていう話なわけだが(笑)

映画でも、動機はともかく、実際に難民とエスニックを受け入れてる、それは何もしないで言葉狩りやってるよりはずっと尊いと思うが。自分は、受け入れの当日手作り感満載の歓迎セレモニーとか、生徒の何気ない差別的な言葉を一生懸命フォローして偏見を取り除こうとするところとか、そういうポジティブな点を好ましいと思ったのだが。

ところで、この映画でも、イタリアの教育制度や地方自治の一端が窺えるわけだが、ヒロイン教頭が抗議に行くラクイラは、アブルッツォ州の州都にしてラクイラ県の県都でもあるわけだが、教育行政は県が予算執行権をもっている。しかし、学校の設置者は国(イタリア政府)なので(つまり、イタリアの私立以外の小学校は国立)、廃校となると、本当は県→国家教育省の県出先機関→州出先機関→国、という形になるのだろうと思う。
したがって、先生たちも、正規雇用者は国家公務員で、地域に配置される。本作の主人公の場合、ラッツィオ州ローマ県ローマ市の国立小学校から田舎への転勤希望を出していたらアブルッツォ州ラクイラ県のコミューネへ、ということ。小学校の教師は、マエストロ(女性はマエストラ)、作中でもさかんに、「マエ、マエ」と親しみを兼ねて呼んでたのがそれ。中学校以降は大学の教師も含め、プロフェッソーレ(女性はプロフェレッサ)だから、実は以前は小学校の教師は師範高卒でなれたことの名残り。
学校長は、学区長でもあり、複数の小学校の校長を兼ねるので、個別の小学校には常駐していないのは、田舎だからではなくイタリアなら普通のこと。その代わりの個別校の責任者を務めるのが、副校長ないし教頭ということになる。小学校は、夕方まで授業があって(これに対して、中学校以降は、むしろ午前でおしまい、2時ごろに家に帰って昼ご飯を食べる)、給食も出る。小学校の送り迎えは親の責任だから、親の負担を減らすという目的があるんだろう。映画では、無駄にカッコイイ何でもやる小使いさんが作る給食がおいしそうだった。

シンダコは、コミューネの首長。字幕では市長と訳していたけど、イタリアでは末端の地方自治体、日本でいう市町村を区別しない。ローマやミラノといったのは特別市だけど、それ以外は全部コミューネ。で、なんで他の自治体の雪かきとかを邪魔できるかっていうと、舞台の村は、そのコミューネに従属するフラッツィオーネだから。要するに、コミューネに従属する、しかしそれ自体がまとまった共同体、それがフラッツィオーネ。日本でいえば、地方に見られる区に相当するが、その責任者区長はシンダコとは正式には呼ばない。市議会議員のうちの一人がそれを兼ねる、そんな感じ。
イタリアの田舎の市役所とか、シンダコがいるオフィスってのがあんな感じで、日本だと村役場ですら、官僚機構っていう感じがするけど、シンダコが何でもやる、みたいな。
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