みゆ

教皇選挙のみゆのネタバレレビュー・内容・結末

教皇選挙(2024年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

神の声を待つ男たちの葛藤と孤独。ナンニ・モレッティ監督が2011年に発表した『教皇選挙(Habemus Papam)』は、ローマ・カトリックの教皇選挙(コンクラーベ)を題材にしながらも、権力争いや陰謀とは一線を画した、極めて人間的なドラマ。信仰と重責に押し潰されそうになる男の葛藤を描き、ユーモアと哀愁が入り混じる作品に仕上がっていた。白い煙が上がった、その先にあるもの。
舞台はバチカン。前教皇の死去を受け、新たな教皇を選ぶために枢機卿たちがシスティーナ礼拝堂に集められる。多数決で選ばれたのは、老いた枢機卿メルヴィル(ミシェル・ピッコリ)。彼が新教皇として迎えられるはずだった。
しかし__「神の御心に従います」と宣言するはずの彼は、突如として逃げ出してしまう。バチカンは大混乱。神に選ばれし者が、その責務を拒むとは一体どういうことなのか。彼の精神状態を探るため、バチカンに招かれたのは心理学者(ナンニ・モレッティ自身が演じる)。しかし、無神論者の彼が介入したところで、信仰に絡んだ心の問題を解決できるはずもない。逃亡したメルヴィルはローマの街へとさまよい出る。市井の人々と触れ合いながら、自らの人生を振り返る。かつて俳優になりたかった彼が、演劇の世界に憧れを抱きながらも、神の道へと進んでしまったこと。信仰とは何か、神に選ばれたというのはどういうことなのか——。その間、バチカンでは枢機卿たちが教皇不在の状態をひた隠しにしながら、時間稼ぎを続ける。心理学者と枢機卿たちは暇を持て余し、バチカン内でバレーボール大会まで始める始末。シリアスな状況のはずが、どこかユーモラスで滑稽にすら見える。教皇とは何者か? 神と向き合うことの孤独。この映画の核心は、単なる「教皇選挙の混乱劇」ではない。むしろ、「教皇という存在が背負う孤独」 を描くことにある。信仰の頂点に立つ者は、決して無謬の存在ではない。迷い、苦しみ、時には神の声を聞けずに沈黙することもある。メルヴィルは「自分にはこの責務を果たすことができない」と自覚している。それは決して信仰の欠如ではなく、むしろ強すぎる信仰ゆえの恐れだ。神に選ばれし者が、その役割を果たせるとは限らない——その残酷な事実が、この映画の静かな絶望を生んでいる。結末は神に選ばれることの重み。最終的にメルヴィルはバチカンに戻る。しかし、彼が人々の前で発した言葉は「Habemus Papam(我らに教皇あり)」ではなかった。彼は自らの無力を認め、教皇の座を辞退することを宣言するのだ。その瞬間、バチカンの広場に集まった群衆が沈黙する。期待と信仰のもとに集まった人々が、一斉に失望する瞬間。誰もが白い煙を見たとき、新たな導き手が生まれると信じていた。しかし、そこにいたのはただの「一人の人間」にすぎなかった。映画は、そんな彼の姿を静かに映し出しながら幕を閉じる「選ばれし者」の苦悩を描く異色の宗教映画。
本作は、宗教映画でありながら、神の存在を問う作品ではない。むしろ、「神の道を歩むことの孤独」をこれほどまでに静かに、そして鋭く描いた作品は珍しい。ナンニ・モレッティの演出は、宗教的テーマを扱いながらもシリアス一辺倒ではなく、ところどころにブラックユーモアを織り交ぜることで、人間の滑稽さを浮き彫りにする。
主演のミシェル・ピッコリの演技は圧巻。迷い、苦しみ、そして最後に決断するその姿は、圧倒的な説得力を持つ。人はなぜ神を信じ、神に選ばれたときに苦悩するのか。その問いに対する答えは、この映画の中にはない。しかし、観る者の心には深く刻まれるはず。静かに心を揺さぶる、教皇という存在の裏側を描いた秀作。


そういえば後日この映画を「ジジイの小競り合いなのに何故面白いんだろう」って感想を見かけて笑ってしまった。
みゆ

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